フォドラではセイロス教が広く信仰されているが、ひとたびその範囲を飛び出せば、別の信仰と出会うことができる。
例えばダスカーでは役割ごとに何柱もの神々がいるし、ブリギットでは自然に宿る精霊たちが信仰される、といった具合である。
なにせガルグ=マクはセイロス聖教会の総本山であるから、他の信仰について図書室の書籍で充分な情報を得るのは難しい。むしろ書籍より、ガルグ=マクの礼拝に来た旅人や、各地を転々とする商人たちから話を聞く方が手っ取り早いかもしれない。
さて、セイロス聖教会にとっては大変不敬なことではあるのだが、最近一部の読書家の間で、「神々の物語」というものがひそかな流行になっていた。その物語の中では、ダスカーのような役割ごとの神々が存在し、歴史を紡いでいるのだ。このような本が教会に見つかれば即焚書となってしまうので、好事家達はいかがわしい書籍と同じように、見つからないようこっそりと楽しんでいた。
ある日、読書が趣味のアッシュが市場で掘り出し物の本を探していると、偶然「神々の物語」の本に出会った。興味を引かれた彼は、多少値切った上でその本を買ってみた。
読んでみると、騎士道物語ほどではないにしても、これがなかなか面白い。さまざまな神が人に幸運を、また別の時には災厄をもたらす。時には神同士でいがみ合うこともあり、その子どもの喧嘩のような内容につい笑ってしまったりした。
個性豊かな神々の中で、アッシュが特に興味を引かれたのは、弓矢を持った恋の神様だった。矢で射抜くことで人を恋に落とすというその神が気になったのは、アッシュ自身が弓使いであるということも多分にあっただろう。
恋の神様は、男女の仲立ちをして二人を幸福にすることもあれば、気まぐれに弓を引いて愛憎劇を巻き起こすこともある。どこか恐ろしい一面も持つその神の物語は、随分と面白いものだった。
さて、士官学校の学生の本分は、勉強と訓練だ。
アッシュが訓練場に向かうと、先客が一人。同じ学級の学友、アネットだった。しかしその日がいつもと違ったのは、アネットが理学や斧ではなく、苦手なはずの弓を引いていたことだった。
「アネット、お疲れ様です。どうして弓を?」
「あ、アッシュ、お疲れ様。ちょうど良かった。ちょっとここの弓の持ち方、教えてくれない?」
こないだメーチェにも聞いたけどよくわからなかったんだよね、とアネットは頭をかく。
「君は弓が苦手だって言ってませんでしたっけ」
「うん、まあ、そうなんだけどさ。戦場では何が起こるかわからないし、少しでもできることを増やしておきたいんだ」
全く努力家のアネットらしい考えである。しかし手を広げすぎると器用貧乏に陥る可能性もあった。
「うーん、苦手なことを無理してするよりは、得意分野を伸ばす方が先決だと思うんですが……」
「確かにそうかもしれないけど……。でももう少しで、コツを掴めそうな気がしてるんだ! だからもしアッシュの迷惑じゃなかったら、教えてほしいな」
そう言われて断る理由もなかったアッシュは、アネットに弓を指南してみることに決めたのだ。
実際にアネットを指導してみると、「もう少しでコツを掴めそう」と思っているのは本人だけで、必ず守らなければならない基本的な動作すらめちゃくちゃだった。やはりアネットに弓は向いてないんだなと、アッシュは内心ため息をつく。それでも一生懸命弓を引き、熱心に教えを乞うアネットを無碍にはできず、基本の「き」だけでも教えようと奮闘した。
「……うん、だいぶ良くなりました。でも、まだ体の軸がぶれてますし、近くの的のどこかに当てるのも難しそうですね」
「はぁ……。やっぱりあたし、向いてないんだね。アッシュの言う通りだったよ……。せっかく一生懸命教えてくれたのに、ごめんね」
己の力不足をようやく悟ったアネットが詫びた。
「いいんです、僕も基本に立ち返るいい機会になりました。それに、君にはよく勉強を教えてもらってますから、このくらいはやらないと」
アッシュは笑顔でアネットに答えた。
「ありがとう。ねえアッシュ、良かったら、最後にお手本を見せて」
そう言われたアッシュは弓を構える。ばしゅ、と遠くの的の中心を正確に射抜いたアッシュにアネットは感嘆した。
「すごい、すごい! やっぱりアッシュはすごいよ! あたしなんて、矢が近くの的にも届かなかったのに……。かっこいいなあ」
目を輝かせてそう言われてしまうと、なんとも面映ゆい。アネットは素直だ。思ったことを直球で表現することが多いアネットは、今本当にアッシュのことをかっこいいと思っているのだろう。
「いつも訓練してますから、このくらいは当然ですよ」
「ううん、あたしがアッシュと同じくらい訓練しても、こんなに上手くはならないよ。やっぱりアッシュがすごいんだと思う。それに、アッシュは訓練もすごく頑張ってると思うし……。ねえ、手のひら見せて」
突然そう言われて、アッシュは疑問に思いながらも両手の手のひらを上に向けて、アネットの前に差し出した。
「あ、やっぱり! 手のひらとか指が、ところどころ固くなってる。うんうん、これはアッシュが毎日頑張ってる証拠だよ!」
不意に、アネットが両手でアッシュの手のひらに触れ、固くなったところを指の腹で優しく撫でた。
突然女の子にそんなことをされたものだから、アッシュの胸がどきんと跳ねた。それでもアネットはその手を離さずに、アッシュの手のひらをまじまじと眺める。アッシュは耳まで真っ赤になった。アネットの手は想像以上に小さくて、指も細い。こんなに小さな手で、小さな身体で、大きな斧を振り回しているなんて。
「……あ、ごめん! 気安く触っちゃって、迷惑だったよね」
アネットが我にかえって、慌てて手を離した。心なしか頬がほんのり染まっているようにも見える。
「い、いえ、平気です。気にしないでください」
実際のところ、平気などでは全くない。まだアッシュの胸の奥で、心臓がどくどくと脈打っている。彼に触れたアネットの手の感触は、矢じりで頭を撃ち抜かれる衝撃に等しかった。
ああ、射抜かれてしまった。
アッシュの脳裏に、かの物語がよぎる。アネットはあんなに弓が不得手なはずなのに、どうして。
その日、彼は恋の神様の手に落ちた。
〈了〉