優しい呪い

「サーリャ、ごめんなさい…! あたし…」
天幕の中に響いた声に、苦しさがにじむ。
声の主は、その長い髪に美しい赤をたたえた天馬騎士、ティアモだった。
そのティアモに向かい合って座っているのは、全身に黒を纏った呪術師。
2人きりの空間に、重苦しい空気が淀んだ。

呪術師サーリャとティアモは、意外にも仲が良かった。
きっかけは、先のペレジア大戦。
卑劣な方法で開戦を仕掛けてきたペレジアの大軍相手に、少数精鋭のイーリス軍は必死に戦いを重ねてきた。
その中でも、天才だとの呼び声高かったのがティアモである。
その能力は完璧で、人柄も素晴らしいと賞賛される彼女に、軍の誰もが尊敬の念を抱いていたが、彼女にはたった1つ、弱みがあった。

一方サーリャは、かのペレジア軍から寝返ってイーリス軍に加わったという経緯から、軍の大半から疑念を向けられたり、疎まれたりしていた。
そんなサーリャにティアモは近付いた。同情ややさしさなどではない、私利私欲からのことであった。

「あの…、あなた、占いが得意だって聞いたわ」
ティアモがおずおずと話しかけてきた日のことを、サーリャは忘れていない。
その頃、マムクートの少女ノノーー彼女はその純真さから、サーリャにも分け隔てなく接していたーーの占いをしてあげたことから、サーリャは腕のいい占い師だと、そんな噂が流れていた。その噂をティアモも耳にしていたのだ。

ティアモは、自分の想い人との今後の運命についての占いを、サーリャに所望した。普段のティアモは「運命は自分で切り開くもの」と豪語し、スミアの花占いをたしなめるような人物だったが、それでもそのときのティアモは、占いにすがらずにはいられないほど弱っていた。
サーリャは占わずとも、彼女の想い人を知っていた。というか、軍では知らない者の方が少なかった。
クロム。イーリス軍の大将にして、王子である彼に、ティアモはずっとずっと想いを寄せてきた。しかしサーリャに占いを依頼する頃には、クロムの目が自分ではない女性を見つめていることに気付いていた。
結局ティアモは、占う直前になって、「やっぱり占いに頼るのは良くない」と辞退した。
そんなティアモに、サーリャは興味を持った。ティアモの心に巣食う、叶わぬ恋という深い闇。それでいて、気高く生きる強い精神力。サーリャは彼女にダークマージの素質を見出したのだ。

サーリャにもまた、想い人がいた。
ルフレ。クロムの片腕であり、「半身」と称されることもある男。ルフレは記憶喪失で素性は知れなかったが、類い稀なる軍師の才と、戦闘能力を持っていた。
しかし、彼が尋常でない闇の波動を宿していることに、イーリス軍の皆は気付いていなかった。闇の世界に親しみのあったサーリャを除いては。
サーリャはその波動に異常な程心酔していた。彼女はルフレを「初恋の人」だと信じ、イーリス軍に加入して間もなく、彼のあとを四六時中尾けまわすようになっていた。
サーリャは分かっていた。彼が自分を、仲間として大事にすることはあっても、それを超えて愛することはないと。それでも彼を追わずにいられなかった。
そんな自分と、クロムをひたむきに想うティアモが重なった。
これをきっかけに、サーリャとティアモはお互いの悩みを打ち明ける間柄になったのである。

ペレジア大戦に勝利してから2年後、イーリス軍は今度はヴァルム帝国との戦に臨んでいた。今回の戦にあたってペレジア大戦の戦功者が招集され、その中にサーリャとティアモもいた。
サーリャとティアモは再会を喜んだが、2人を取り巻く状況は大きく動いた。
…ルフレが、ティアモに求婚したのだ。

「あたし…ルフレと結婚することになったの…」
サーリャと対峙した天幕で、ティアモは絞り出すように言った。
「ごめんなさい…あなたの気持ちを知っているのに…」
ティアモは、かつての想い人・クロムが結婚したときのことを思い出していた。
クロムが意中の女性と結婚することは分かっていたが、いざ現実になってみると、とても割り切れるようなものではなかった。
クロムのしあわせを誰よりも望んでいたから、結婚が上手くいってほしいと願っていたが、2人の結婚式から帰った日の夜、ティアモは家で独りきりで泣いた。
結婚を心の底から祝いきれていない自分が嫌だった。
そしてサーリャの想い人・ルフレと結婚しようとしている今、サーリャにかつての自分と同じ思いをさせてしまうことが心苦しかった。ティアモにとってルフレの求婚は思いがけないものであったが、それでも、彼をサーリャに譲る気にだけはなれなかった。

「そんなこと…知っていたわ…」
サーリャはこともなげに言う。
ルフレをいつも観察している彼女に、ティアモとの関係が分からないはずはなかった。ティアモにはしあわせになってほしいと思っていたが、その相手がルフレともなると複雑だ。しかし、彼女は悟られまいと努めた。
「私の大切なルフレと結婚するなら、分かっているわね…ルフレを不幸にするようなことがあれば呪うわ。たとえ貴方でもね…」
サーリャの声は少し震えていたが、気付かないふりをするのが礼儀だと、ティアモは知っていた。今のサーリャは、かつての自分と何もかも同じだった。
「もちろんよ。ルフレのためなら、何だってしてみせるわ」
迷いなく返すティアモに、サーリャは満足げに口角を上げた。
「それでこそ、よ…ルフレに全てを捧げなさい。ティアモ、貴方ならできるわ。…しあわせに、なりなさい」
サーリャがそう言うと、ティアモは礼を言い、足早にサーリャの天幕を離れた。サーリャの相手をしたくなかったからではない。…サーリャに、泣く時間を与えたかったから。ティアモは再び、過去を振り返った。

密会から数日後、ルフレとティアモの結婚について軍内で発表があった。
その夜、野営地の片隅の天幕から、呪文の詠唱のようなくぐもった声が漏れていた。
その天幕の内側で、サーリャが道具を並べ、呪いの言葉を紡いでいる。その手元から呪力の波紋が広がるが、それは決して冷たいものではなかった。
術者のサーリャは、ルフレとティアモの顔を思い浮かべる。サーリャが施そうとしているのは、2人がしあわせになる呪いであった。
ふいに、サーリャの胸が締め付けられる。それが「嫉妬」という感情であることは、呪術師である彼女には手に取るように分かる。いつの間にか、頬に一筋の涙が伝っていたが、気付かないふりをした。
精神の集中を欠けば、呪術は成功しない。サーリャは暴れる感情を必死で押さえ込み、儀式を続けた。それは、サーリャの呪術師としての誇りであった。

「…成功、したわ…」
儀式を終えてそう確信した彼女の喉元に、嗚咽がこみあげてくる。双眸から涙が玉のように溢れ出てくる。サーリャはその生理現象に抗う術を知らなかったが、せめて声を押し殺そうと努力した。そうして独りで夜を明かすつもりだったのだ。

「サーリャ、大丈夫〜?」
そうさせてくれなかったのは、一人の男であった。
気の抜けたような声にサーリャは嗚咽をこらえ、舌打ちをしたが、その男ヘンリーは、構わず天幕の中に押し入ってきた。天幕のわずかな明かりで、その銀髪と白い顔が浮かび上がる。

ヘンリーはサーリャと同じく、呪術師で、なおかつペレジア軍の裏切り者であった。
サーリャもペレジアでは指折りの呪術師だったが、ヘンリーの実力はそれをはるかに凌駕しており、その噂はサーリャも聞いていた。
どんなおどろおどろしい奴かと思えば、屍島で出会った彼は、呪術師には似合わぬ笑顔が常に張り付いた少年で、残忍さをちらつかせつつ陽気にふるまう稀代の変人であった。
サーリャは彼と自分自身が憎らしかった。あんな変人が強大な魔力と呪術の実力を持っていることに嫉妬し、また奴に負けてしまう自分が許せなかったのだ。

そんな憎い相手がこのタイミングで侵入したことで、サーリャの胸にどす黒い物が渦巻き始めた。
「…何よ…」
しかし今のサーリャには、そう気丈に口にするのが精一杯であった。
「僕、通りすがりに呪いに気付いて、この天幕にくっついてたんだ〜。サーリャ、今儀式してたよね〜? それで儀式が終わった後、苦しそうにしてたから、呪いに取り込まれたんじゃないかと心配したんだ〜」
そう言って笑う彼の顔から、感情は伺い知れなくて、たいそう不気味だった。
「私がこれしきの呪いに負けるはずないでしょう…だいたい、どうして貴方が天幕にくっついてるのよ…」
「サーリャの呪いって面白いから。勉強になると思ったんだ〜。幸せになる呪いなんて、僕使ったことないし〜」
サーリャの恨みがましい視線もなんのその、ヘンリーは顔色ひとつ変えない。

「それで〜? どうして泣いてたの〜?」
急に核心を突いてきたヘンリーに、サーリャはたじろいだ。
ヘンリーは、他人の心に土足で踏み込むことがしばしばあった。今回天幕に入ってきたのだって、普通の人間だったら泣き声に気を遣い、そっとしておこうとその場を離れるであろう場面である。ヘンリーはそんな空気などおかまいなしであった。
また、彼は悲惨な過去を、さらりと語ってみせることがよくあった。大して仲の良くない相手であろうが、自らの最大の傷を惜しげも無く白日のもとに晒すのだ。つまり、ヘンリーは他人との距離感が掴めていなかった。

「ルフレが結婚するのが嫌なの〜?」
サーリャが答える前に、ヘンリーは追い打ちをかけた。
「もしそうなら、どうして2人がしあわせになる呪いなんて使ったの〜? 普通、ティアモを殺す呪いとか使うんじゃない?」
「そんな呪い、使う訳ないじゃない…ルフレが悲しむもの」
質問攻めにされて言葉を詰まらせたサーリャだったが、最後の質問には即座に反応した。恋敵を呪いで苦しめる、呪術の世界ではそう珍しくないことではあったが、ルフレを悲しませることを全て排除したいサーリャに、その選択肢はなかった。ティアモだって、彼女にとっては仲間だ。
「そっか〜。人殺しの呪いなら手伝えたんだけど、残念だな〜。じゃあ、サーリャの好きって気持ちを殺す呪いを使ってあげようか〜?」
「それも嫌…ルフレと私の繋がりを断とうとする呪いなんて、許さないわよ…」
「ふ〜ん。サーリャって、ティアモに似てるね〜」
サーリャは一瞬疑問に思ったが、以前クロムについて、ティアモと同様のやりとりがあったのだろうと思い至った。
「言いたいことはそれだけ…? 邪魔だから出て行って頂戴…」
「は〜い。じゃあねサーリャ、おやすみ〜」
ヘンリーはあっさり引き下がって出て行った。その背中を見送ってから、堰を切ったように泣き出した。
小さくすすり泣きが漏れる天幕を訪れようとする者は、今度こそなかった。

サーリャは徐々に憔悴していった。食べ物が喉を通らず、夜も眠れないのでは当然の結果だ。
軍の多くから距離を置かれているとはいえ、彼女を心配する仲間も確かに居た。ソールやヴェイクからは、果物の差し入れがあった。あのヘンリーからは、なぜか買い物ややけ食いのお誘いがあったが、断ると心底不思議そうにしていた。
そんな仲間からの気遣いに触れても、サーリャはなかなか立ち直れずにいた。そんな中、彼女が最も恐れていたことが起こった。

「しばらく、前線を外れてほしい」
ルフレからの呼び出しに心躍るサーリャを待っていたのは、冷徹な言葉だった。
「今の君は、体調面で決して万全とはいえない。このまま戦場に出れば、命を危険に晒すことになる」
ルフレは、サーリャの異変の原因が自分にあることは承知していた。それでも、軍師としては1人の犠牲もないよう、兵を動かさなければならない。そのために、サーリャの休養は避けられない判断だった。
「そんな…ルフレ…! 私…私、貴方の役に立ちたいのに…」
「その気持ちは嬉しいけど、今は無理だと思う。しばらく休んで、また元気になったら力になってほしい」
狼狽する彼女に、ルフレは努めて平静に言い、自分の天幕から送り出した。

茫然自失のまま、青白い顔でふらふらと歩く彼女とすれ違った仲間はぎょっとしたが、あまりの痛々しさに声をかけることはできなかった。
サーリャは自分の天幕に戻り、頭を整理する。
…休んでなんかいられない。私は今、ルフレの力になりたい…
そう強く願ったが、この痛みから立ち直れなければ戦場に出られないのは自分でも分かっていた。でも、果たして立ち直るまでにどのくらいの月日が必要だろうか。回復する頃には、戦は終わっているのではあるまいか。

サーリャの思考は、回復を早めるためにどんな呪術を使うかに焦点を移した。とはいえ、心の傷を癒す呪術というのは容易なことではない。
以前、呪いの実験として、リベラの心の闇に触れたことがある。見かけによらず壮絶な過去を持っていた彼は、呪いでその全てを暴かれ、救われたと言っていた。
しかし、今サーリャに対して同じことができるのは、ヘンリーしかいない。
…あいつにだけは、知られたくない。
呪術師として羨望の対象である彼に、弱みを見せることはしたくなかった。それに、どうせ自分の想いや痛みなんて、これっぽっちも理解できないだろうとサーリャは決めつけていた。
この方法はダメだ。でもヘンリーと言えば、あの呪いを使えば…
サーリャは天幕を出て、銀髪を探し始めた。その瞳には、強い決意が宿っていた。

「好きって気持ちを殺す呪い〜? こないだは、嫌だって言ってたよね〜?」
「そうよ…でも、気が変わったの…」
サーリャは、ルフレへの想いを手放すことに決めた。そうして立ち直りを早め、また前線に出ることが、何よりルフレのためになると思ったのだ。
これまで何よりも大事にしてきた、ルフレへの想い。でもそれも突き詰めれば、そんな自分勝手な想いを持つこと自体が我儘であった。ルフレのために、もう我儘はやめよう。そう自分に言い聞かせ、ここにやってきた。
「ふ〜ん。まあいいや、サーリャが望むなら、やってあげるね〜」
ヘンリーの天幕には、先刻別の呪術を使ったのだろうか、香の匂いが残っていた。ヘンリーは道具袋から、呪術具や材料を無造作に取り出して、床に並べていく。その道具は、サーリャが普段使っているものとはかなり違う。呪術の習得が自己流によるところが大きい彼らしかった。

道具を並べ終わった後、2人は向かい合って床に座った。
「じゃあ、始めるよ〜」
床の道具を手順通りに動かし、瓶の液体を材料に垂らし、呪符を蝋燭の火にかけて燃やす。ヘンリーの所作は実に淡々としていた。
一方のサーリャは、その様子を長い睫毛をふるふると震わせながら見ていたが、やがてぎゅっと目を閉じ、身体を強張らせた。整った顔立ちと流れるような黒髪が、蝋燭に照らされてゆらぐ。
儀式を進めていたヘンリーが、そんなサーリャの様子を一瞥する。ーーヘンリーは、動きを止めた。

「ごめん。やっぱりできない」
「え…?」
ヘンリーからの意外な言葉に、サーリャは閉じていた目を見開いた。
「どうして…? 私、何かいけなかったかしら…」
自分のルフレへの想いが強すぎたのか、と疑った彼女が表情を曇らせる。
「ううん。なんだか、やる気なくなっちゃって〜」
「はぁ…?」
サーリャの頭に血が昇った。せっかく一大決心して呪術を請うたというのに、目の前の男は気まぐれで反故にしようとしている。
「一度引き受けた呪いを放棄するなんて…それでも呪術師なの…!? 続けなさい…!」
「ごめんね〜。でもこんな気持ちになっちゃったら、どうせ続けても失敗しちゃうと思うよ〜」
ヘンリーの言う通りだった。呪術で肝要なのは、精神の集中。そこには、術者の強い意志が必要なのだ。サーリャは思い切り舌打ちをした。
「何なのよ、もう…貴方って、やっぱり分からない…」
「僕も分からないよ〜。でも何だか急に、サーリャの気持ちを操作するのが嫌になっちゃった。どうしてだろうね?」
「私が知るはずないでしょ…」
苦々しく告げ、もうここに用はないと、サーリャはさっさと天幕を出て行った。
ヘンリーは首を傾げながら、道具の片付けを始めた。

サーリャは相変わらずやつれていたが、かつてと同じく、ルフレを尾けまわす日々を送っていた。
これまでと違うのは、そんなサーリャの傍らに、ヘンリーの姿が見られることが多くなった点である。
ヘンリーが呪術を使えなかったあの日から、彼は度々サーリャの前に姿を現した。時には世間話をし、時には屍兵の腕を押し付けてきた。その行動は不可解だったが、呪術ができなかったことの罪滅ぼしのつもりか…とサーリャは考えた。
…馬鹿ね。そんなことをしたって、呪えなかったという事実は変わらないのに…。
そう思って始めこそ邪険にしていたが、あれこれと色々なものを持ってくるヘンリーに、呪術の材料を持ってくるよう試しに頼んでみたら、すぐに調達してきた。
なかなかに便利な男だ。これまで呪術の材料集めをドニに依頼して、彼もよく応えてくれたが、呪術具や薬草などは知識がなければ調達は困難だった。その点、同じ呪術師のヘンリーであれば心配はいらない。そう認識を改めたサーリャは、ヘンリーを利用することにした。
いつしか、彼が話しかけてきても即座に追い払うということはなくなっていった。

そうして幾度かお使いを頼んだ後、今度は近くの低山に薬草を取りに行くという話になった。山ではあるが、丸1日あれば何とか戻ってこられそうだった。
これまでのお使いよりは遠出だったため、サーリャは駄賃として弁当を用意し、ヘンリーに持たせた。かつてルフレのために腕を磨いたため、料理には自信があったのだ。単に「利用している」のであれば、弁当を用意する義理などないはずだが、なんとなくそうしたかった。
サーリャから弁当を受け取ったヘンリーは、いつもの笑顔で「行ってきま〜す」と告げ、意気揚々と山に向かったのである。

ヘンリーは3日間戻ってこなかった。
以前からヘンリーはふらりと野営地から姿を消すことがあったため、今回も特に騒ぎにはなっていなかったが、サーリャは気が気ではなかった。物陰からルフレの様子を伺っていても、そのルフレがティアモと仲睦まじく談笑していても、もはや何も頭に入ってこなかった。
ヘンリーを信じて3日目の夜まで待ったものの、姿を見せることはなく、その晩はまんじりともしなかった。4日目の夜明け、サーリャは特効薬を抱えて野営地を飛び出した。

低山の麓に着くと、待ち人がちょうど下山してくるところだった。…見慣れた姿が、赤く染まっていた。
「ヘンリー!」
よたよたと降りてくる男に駆け寄ると、乾いた血がへばりついた笑顔で応えた。
「あ、サーリャ、迎えに来てくれたんだ〜。この草で良かった〜?」
収穫を誇らしげに見せる。
「お弁当おいしかったよ〜ありがと〜」
サーリャは声を出せなかった。何か口にすれば、涙が出てきそうだったが、こんな男のために泣くなどという失態があってはならなかった。
代わりに無言で特効薬を差し出すと、ヘンリーは一気に飲んだ。まだ濡れていた傷がみるみる塞がっていく。
その様子を見て少し落ち着いたサーリャは、「…帰りましょう」とだけ呟き、ヘンリーに肩を貸した。2人は並んで歩き出した。

触れ合ったところは温かく、ヘンリーはちゃんと生きていた。
聞くと、山の中腹まで来たところで運悪く屍兵に遭遇し、強行突破を図って大怪我を負ったらしい。
なんとか殲滅した後、目的の薬草を採取したところで力尽き、2日間程眠っていたようだった。
「…どうして、屍兵がいた時点で引き返さなかったの…」
「だって〜、まだ薬草のところまでたどり着いてなかったんだもん」
ヘンリーにとっては、他者の命はもちろん、自分の命だって羽のように軽い。自分の危険を顧みず敵陣に突っ込みたがる彼に、ルフレは手を焼いていた。
「薬草なんて、また今度でも良かったじゃない…」
「なんで〜? サーリャ、薬草欲しかったんでしょ〜?」
話が通じない。
「優先順位がおかしいわ…薬草より、貴方の命の方が大切よ…」
「そうかな〜? 僕、両親にほったらかしにされてたんだよ。僕が生きていようがいまいが、どっちでもいいんじゃない〜?」
「…今の貴方は必要とされているわ…ルフレからも、他の人からも…」
「あ、そっか〜。戦争だから、戦力は大事だもんね。じゃあ僕、戦争が終わるまでは死なないようにするね〜」
「…戦力として、だけじゃないと思うわよ…」
「え〜? そんな感じしないけどな〜」
ヘンリーは腑に落ちない様子だったが、サーリャも口が上手い方ではなかったので、彼を納得させる言葉を発することはできなかった。

野営地に帰り着くと、医療班にヘンリーを預け、サーリャは天幕で昼まで眠った。その後昼食に現れたが、久々に完食して周囲を驚かせた。

一度食事を平らげたのが良かったのか、サーリャの食欲は徐々に戻っていった。
元々不眠症だったため、夜はなかなか寝付けなかったが、睡眠時間も少しずつ伸びていった。
青ざめた肌は、以前の血色(と言っても、人と比べると白いのだが)を取り戻していく。
そうしてしばらく経ってから、彼女にとっては待ちに待った出撃許可が下りた。

「あの儀式、止めてもらって良かったわ…」
いつものように声をかけてきたヘンリーに、サーリャはそう告げた。
サーリャは相変わらず毎日のようにルフレを追っており、ルフレを視界に入れられる喜びを噛み締めていた。「好きという気持ちを殺す呪い」を完遂していたら、今の喜びを失っていたはずだ。
「あはは、結果的には良かったね〜」
あの呪いが必要なかった、となると。サーリャには1つ引っかかっていることがあった。
「だからヘンリー、もう私に罪滅ぼしする必要はないのよ…」
「罪滅ぼし〜? 何のこと〜?」
「貴方がこうして、私のところに来ること…。貴方は私に、色々な話をしたり、物を持ってきたりしたわ。それって、呪いが上手くいかなかった埋め合わせじゃないの…?」
「え〜、そんなこと考えてなかったよ〜。僕は来たかったから来てただけだよ〜」
「そうなの…?」
「僕ね〜、あの時どうして儀式ができなくなったのか、ちょっとだけ分かったんだ」
ヘンリーは続ける。
「儀式の時、僕、自分の手元ばっかり見てたんだけど、ちらっとサーリャの方見たら、やつれてるけどすごく綺麗だなって思っちゃって。その瞬間手が動かなくなったんだ〜」
「え…?」
唐突に容姿を褒められたサーリャはうろたえた。頬と耳が一瞬で熱を持って染まるのが自分でも分かる。
「でも綺麗だったらなんで儀式ができなくなっちゃうのかが分からないんだよね。不思議だな〜」
もしかして僕を呪ったの〜? なんて冗談を言って笑うヘンリーの前で、サーリャは言葉を失っていた。思考が乱れてまともな返事ができない。
「あれ〜? もしかして照れてる〜?」
「…! …照れてないわよ…」
「ふふっ、顔真っ赤だよ〜?」
そう言ってわざとサーリャの顔を覗き込んできたので、思い切り顔を逸らす。
「うるさいわね…! もう行きなさい…行って…!」
思わず声を張ると、ヘンリーはへらへらと笑いつつ、またね〜と手を振って去っていった。
鼓動を抑えるのに、少し時間がかかった。

各地で屍兵の活動が盛んになっている折、屍兵の大群がフェリア城を包囲しているとの知らせが入り、討伐に向かった。
灼熱の地で生まれ育ったサーリャは、フェリアの気候が嫌いだ。戦闘中は興奮状態のため、いつもの格好でもなんとか大丈夫だが、移動中や休憩中は、常日頃は決して身につけない外套や帽子を着込んでがたがた震えている。
その日も吹きすさぶ風と雪をやり過ごそうと、フードを目深に被って行軍していた。
ふと、あいつはどうしているんだろうと辺りを見回した。目当ての人物は自分の少し後ろの方を呑気に歩いていた。サーリャが立ち止まると、その人影はぐんぐん近づいてくる。
「寒いね〜」
ヘンリーとフェリアに来るのは初めてだった。ペレジアにいたのだから、さぞかし辛いのではないかと思っていたが、案外平気そうだったので拍子抜けする。
とはいえ、その服装はフード付きの外套と襟巻きでいつもより厳重だった。
「寒いわね…でも貴方、ペレジアに住んでいたくせに何ともなさそう…つまらないわ…」
「あはは、酷いな〜」
僕にはコレがあるからね〜、と外套と襟巻きを少し引いて示す。外套はいかにも誰かのお下がりといった感じで、生地の痛みが目立ったが、防寒の役には立ちそうだった。逆に襟巻きの方はまだ新しく、編目もきれいに揃っていて上質なものであることが伺えた。
「私も襟巻きを用意すれば良かったわ…」
首元の寒さに閉口していたサーリャは言った。
「ふふ、いいでしょ〜? これ、ティアモの手編みなんだよ〜」
サーリャは目を丸くした。手編みとは言うが、どう見ても既製品にしか見えない品質である。これが「天才」というものなのか。
「だいぶ前にもらったんだけど、時々しか使う機会がなくて。今日役に立って良かったよ〜」
「どうして貴方がそんなものを…?」
「これ、ほんとは別の人にあげる予定だったんだって。でもティアモ、その人に渡せなかったから、僕がもらったんだよ〜」
別の人、というのは恐らくクロムのことだろう。だが、なぜその代わりがヘンリーなのか。そんなことを考えて、サーリャはいつの間にか、難しい顔をしていた。
「サーリャ、そんなに寒いの? これ貸してあげようか〜?」
言い終わる前に、首から襟巻きを外し始める。有無を言わさず襟巻きを渡されたため、サーリャは厚意に甘えることにする。その細い首にしっかりと巻くと、かすかにヘンリーの匂いがした。

その日は結局城までたどり着かず、なるべく風を避けられるところで野営することになった。
設営を終え、共用の天幕で一息ついたサーリャに、ティアモから話しかけてきた。
「あら。それ、懐かしいわね」
サーリャの首元の襟巻きを見ての発言だった。

サーリャとティアモは、あの天幕での密会以来、個人的に話すことはずっとなかった。お互い気まずかったのだ。
しかし、サーリャは再び出撃許可を受けた日、話がある、とティアモを呼び出した。
サーリャは、ルフレが既婚者となっても、追うことを辞められないことを詫びた。不倫の意図が一切ないとはいえ、妻としては面白くないことに違いはないからだ。
ティアモは、サーリャのルフレへの想いをよく知っていること、自らもクロムを諦めきれなかった過去があることから、サーリャを快く許した。そこには妻の余裕というものもある訳で、サーリャの胸には嫉妬の針がチクリと刺さったが、ティアモの寛容さに心から感謝した。さすがにルフレについては以前のように語らえなかったが、2人はそれからまた、雑談を交わすようになったのである。

「この襟巻き…どうしてヘンリーが…?」
「ああ、それはたまたまよ。本当はクロム様にお渡ししたかったのだけど」
ティアモはばつが悪かったのか、後半の部分だけ小声になった。
「偶然ヘンリーが通りかかって、襟巻きを気に入ってくれたから、あげたの。それだけよ」
「そう…これ、よくできているわね…」
「ありがとう。言っておくけど、ルフレと結婚するずっと前の話よ。時効ってことにしておいて」
そう言って笑顔を見せる。ティアモの笑顔はいつも、サーリャにとっては眩しかった。
「ああ、そうそう。そういう訳だから、ヘンリーに対しても特に何もないから、分かってね」
最後の一言を付け加えた意図は、サーリャには判然としなかった。聡いティアモとしては、サーリャがヘンリーに惹かれ始めていることを察してのことだったが、肝心の本人が何も分かっていない様子だったので、思わず吹き出しそうになる。また襟巻きをサーリャが着けていることから、ヘンリーの気持ちにもなんとなく当たりをつけ、ティアモは心の中でにやりとした。
「ついでに言うけど、その襟巻きは元々捨てるつもりだったから、いつでも処分していいわ。新しく買っても、作ってもいいの。ヘンリーにもそう言っておくわね」
「えっ…これほどの襟巻き、もったいないじゃない…」
ティアモとしては「サーリャからヘンリーに襟巻きを贈ってもいいのよ」というつもりであったが、やはり全く伝わっていないことに笑いをかみ殺し、それ以上は何も言わなかった。
サーリャは頭上に疑問符を浮かべながら、湯気を立てているカップのお茶をすすった。

フェリア城の屍兵討伐は大成功であった。相手は実力はないが数ばかり多い烏合の衆で、こちらから仕掛けるとばたばたと倒れていった。
「大したことない相手で助かったよ」
「うふふ…私、久々にルフレの役に立てたかしら…」
得意の魔法で屍兵の3割を1人で壊滅させたサーリャが、ルフレの側で妖しく笑う。
「ああ、君がいてくれて助かったよ、サーリャ。元気になって本当に良かった」
名前を呼んで気遣うルフレに、サーリャは天にも昇る心地だった。
「寒かったろうに、よく頑張ってくれたね」
サーリャはもはや言葉にならず、うふ、ふふふ…! と身体をくねらせて笑うばかりであったが、ルフレはサーリャが巻いている襟巻きが男物であることに着目した。
「あ、すまない。襟巻きの配給が足りなかったんだね」
「大丈夫、たまたま借りられたから問題はなかったわ…気に病むことはないわよ、ルフレ…」
「予算は限られているけど、今後の配給の予定では検討させてもらうよ。でも君の場合は、それを貸してくれた男にもらう方がいいかもしれないね?」
思いがけない言葉にサーリャは目を白黒させた。
「ち、違うの…! これは、たまたま通りかかった奴に押し付けられただけ…ルフレにもらう以上に嬉しいものなんてあるはずないわ…!」
「へえ、じゃあ僕の奥さんが作ったそれは、気に入らないのかい?」
ティアモはルフレに件の襟巻きの存在を教えていなかったが、ルフレはとっくに知っていた。もっとも、それは襟巻きをもらったヘンリーが、一時期相手構わず自慢していたからなのだが。策士ルフレはその襟巻きが生まれた理由から、それがサーリャにまで渡った経緯を、すっかり把握していた。
「…!」
口をぱくぱくさせているサーリャを見て、ルフレは堪えきれず吹き出した。
「あっははは! ごめんね、意地悪言って。襟巻きの配給は、さっきも言った通り検討させてもらう。でも配給以外で買ったりもらったりした大事な襟巻きがあれば、もちろんそれを使ってもらっていいからね」
「…分かったわ…」
サーリャはやっとそう言って、ルフレの側を離れていった。

ヘンリーから借りた襟巻きは、洗濯して返した。
石鹸で洗ったそれは、何の香りもしない。あの時感じたヘンリーの匂いがないことに一抹の寂しさを覚えた。
「ティアモね、この襟巻き、いつでも捨てていいって言ったんだよ。もったいないよね〜」
どうやらティアモは、宣言通りヘンリーに話をしたらしい。
「そうよね…そんな襟巻き、市場でだってなかなか手に入らないわ…」
「うん。でもティアモ、こんなのより好きな子にもらった手編みの襟巻きの方がずっと嬉しいって言ってたよ。ほんとかな〜?」
「さあ、どうかしら…確かに、ルフレにもらえるなら何でも嬉しいのは間違いないけど…」
「そっか〜。僕も好きな子にもらってみたいな〜」
サーリャは無言だった。
ヘンリーには「好きな子」がいるのか? それは、サーリャの中でも当然に湧き上がった疑問だったが、なぜか聞くことはできなかった。
暖かい日差しの中、襟巻きを手渡した後、サーリャはいつもの装束で踵を返し、マントを翻した。

ウード。
未来から来た、リズの子の名。
ルキナと一緒に現代にやってきたという子ども達の1人が仲間に加わって、軍内はその話で持ちきりだった。
サーリャはウードに会ったことはなかったが、かなり個性的な少年だとの噂を聞いて、「ヘンリー以上におかしい少年なんているのかしら…」とぼんやり考えていた。
「サーリャの子どもにも、いつか出会えるかもしれないね〜」
その日もサーリャの元にやってきた、かの少年は、楽しげに言う。
野営地の片隅で、草原が緑の波となってさざめいている。その端にあった木の下に、2人は腰を下ろしていた。
「ふん…私が結婚なんてすると思う…?」
サーリャは惚れた腫れただのに興味がなかった。ルフレへの想いは「初恋」と呼んだことはあるものの、実際は恋愛感情を超えて、もっと崇高な、魂と魂の繋がり合いだと考えていた。
また、他人の恋愛にも関心を示さなかった。唯一ティアモのクロムへの想いについてだけは、悩みの相談に乗ったこともあり意識していたものの、誰が誰を好きとか、誰が誰と付き合ってるとか、下世話な話は心底どうでも良かった。
だいたい皆、その手の話題に興味を持ちすぎなのだ。ルキナが来たことで、軍の中の数名は、ルキナに「自分は誰と結婚するのか」と問うたという。ルキナは過去に必要以上に干渉したくないとのことで、その手の質問には決して口を割らなかったが、そうでなければ自分の行く末が気になった兵士が押し寄せたに違いない。

「え〜、結婚すると思うけどな〜。サーリャは気にならないの〜?」
「くだらないわ…誰が誰と結婚するかなんてどうでもいい…たとえ、それが私のことでもね…」
「ふ〜ん。僕は気になるな〜、サーリャが誰と結婚するか、それと、僕が誰と結婚するか、ね〜」
ヘンリーが誰と結婚するか。
ふいに、彼が襟巻きについて「僕も好きな子にもらってみたいな〜」と言っていたのが思い出された。やはりヘンリーには「好きな子」がいるのだろう。
サーリャは途端に不機嫌になった。
「…どうせ私は独りに決まってるわ…」
「ねえサーリャ。サーリャの家って、呪術師の家系なんだよね〜」
「ええ、そうよ…」
質問の矛先が、なぜかサーリャの実家に向かう。
「じゃあ、結婚相手も呪術師じゃないといけないとか、決まりはあるの〜?」
「そうね…これまでは、呪術師同士で結婚するよう縁談が組まれてきたみたい。…私の相手も、何人か候補が用意されていると聞いたことがあるわ…。
でも私、そんなのに従う気はないの…」
サーリャが結婚をどうでもいいと思う理由はここにあった。
「だから…結婚したい相手がいなければしない。…万が一いれば、呪術師かどうかは問わない…そう思っているの…」
「そっか〜」
ヘンリーはどこか残念そうだった。

「じゃあ今、結婚したい相手はいるの〜? いないの〜?」
さらに斬りこまれて、サーリャは当惑した。
「いる訳ないじゃない…私にはルフレがいるもの…まあルフレと私が結婚することはないのだけれど…」
語尾の方が小さくなる。
「あ、やっぱりまだ気にしてるんだ〜」
「うるさいわね…だいたいルフレへの想いはそんな俗なものじゃないわ…恋愛なんて器に収まりきれない、魂の絆なの…」
「…前から疑問だったんだけど〜」
「なによ…」
「サーリャはルフレが好きなんでしょ〜? それって、恋と何が違うの?」
う、と言葉に詰まる。確かにルフレへの想いは単純な恋とは違う、でもよくよく考えれば、恋という感情も内包したものではないか。ふいにそんなことが頭をよぎり、うまく説明できそうになかった。
「失恋したなら、いつかは諦めなきゃいけないよ〜」
ぐさり、とヘンリーが一番痛いところを突いた。「失恋」…その言葉を、サーリャはずっと聞きたくなかった。その言葉が意味するのは、「自分は選ばれなかった」という事実だった。
「まあ恋と違うなら、ルフレを今でも追いかけるのは分かるけどね〜」
サーリャの耳には何も入ってこない。

呆然とするサーリャの意識を引き戻したのは3人の来訪者だった。
「よぉ! 悪ぃな、邪魔するぜ」
そう大声を張り上げたのはヴェイク。連れ立っていたのは、そのヴェイクと結婚したばかりのリズ、そして…2人の間には、見たことのない少年がいた。
「えへへ、ごめんね。ちょっと挨拶したくて」
リズが花のように笑う。どうやら2人は、少年に野営地を案内しつつ、ついでに挨拶回りをしているらしい。社交的な2人らしい発想である。
「こいつ。俺様達の子どものウードってんだ。ほら、挨拶しろ」
ヴェイクはウードと呼ばれた少年の髪をわしわしと乱しながら言った。両親とも金髪だが、ウードの髪はどちらかというとヴェイクの金に近かった。
彼の第一声は意外なものだった。
「くっ…感じるぞ…闇の力を…暗黒の波動が俺の真の力を呼び覚まそうとしている…! 鎮まれ、俺の魂…!」
「あれ〜? 僕達の闇の力、分かるんだ〜?」
「ウード〜〜、真面目にしなきゃダメだよ! はい、やり直し!」
リズがウードの服の裾を思いっきり引いた。もうすっかり母の顔である。
「てて、ごめん母さん! あの…ウードです。よろしくお願いします」
先程の芝居がかった言い回しから打って変わって、実におとなしく挨拶をした。なるほど噂通り変わっている。
「ヘンリー、サーリャ、ごめんな。こいつ、こういう奴なんだ」
「ヘンリーさん、サーリャさん。ああ、ノワールの…」
ウードはそこまで言うと、あからさまにしまった、という顔になり、口をつぐんだ。
「ノワール? って何〜?」
「い…いや、何でもありません! とにかくよろしくお願いします!」
ウードは全力で頭を下げた。
両親もウードをよろしく、と言い残し、失礼をした息子を引っ張りながら、次の目的地に向かった。

「ねえサーリャ。ノワールって何だと思う?」
あのウードの様子を見るに、「ノワール」というのは何か重要な秘密であろうと思われた。
「さあ…知らないわ…」
「僕の予想ではね〜、僕かサーリャの子どもの名前なんじゃないかと思うけど、どうかな〜」
「あり得る話ね…」
サーリャは自分が結婚するとはとても思えなかったから、もしこの仮説が正しいなら、きっとノワールはヘンリーの子どもなのだろうと考えた。このいかれた男が自分を差し置いて家庭を持つというのか…そう思うと、なぜか腹が立ってしょうがなかった。
まあいい、こいつが「好きな子」とやらと築く家庭なんて自分とは関係ない。サーリャはそれ以上、考えるのをやめた。

「失恋したなら、いつかは諦めなきゃいけないよ〜」
その夜、眠ろうとして毛布にくるまれたサーリャを待っていたのは、あの時のヘンリーの言葉だった。
失恋。私は選ばれなかった。そのことが頭の中をぐるぐると回る。
ルフレへの感情は単なる恋愛でないから、今後追いかけるのをやめるつもりは毛頭ない。でも、その感情に恋が含まれいるとしたら…やはり失恋したとは言えるだろう。私は選ばれなかったのだ。
ルフレとティアモはお互いを選んだ、それだけのことだ。そもそも結婚というのは、誰かに選ばれないとできないことだ。結婚願望はなかったが、自分は一生誰からも選ばれないのかもしれない、と思うと、初めて寂しさを覚えた。
それにしてもヘンリーである。ノワール、というのが彼の子どもだとしたら、やはり彼は誰かと結婚するのだろう。あんな奴を選ぶ女がいるなんて到底想像もつかなかったが、自分が選ばれないのにあれが選ばれるなんて、許しがたいことのように思われた。
ああ、気に入らないわ。そうだ、今度の呪いの実験台にしましょう。あいつは微妙な呪いを返すのが苦手そうだから、とびきり微妙なのがいいわね。そうね、3日間、つま先立ちでしか歩けない呪いなんてどうかしら…ふふ…うふふふふ…
思考の対象がルフレからヘンリーにすり替わったことに気付かないまま、サーリャは眠りに落ちた。

「サーリャ、買ってきたよ〜」
ヘンリーが、つま先立ちでひょこひょことサーリャに近づいてきた。
「ご苦労様…そうよ、これよ…」
ヘンリーから呪術具を受け取ると、サーリャは満足げに笑んだ。
ヘンリーはまだ「お使い」をやっていた。あの呪いが必要なかったと分かったときから、サーリャはヘンリーを利用する気は失せていたのだが、彼は自らお使いをせがんでくるのである。せっかくだから、と引き続き利用させてもらうことにした。
彼はわざと遠くまでのお使いを求めてくることもあった。そうすることで、サーリャに弁当を用意してもらえることを知っているからだ。その思惑通りに動くのを癪に思いつつ、彼女はせっせと弁当を作った。
「ふふ、良かった。また欲しいものがあったら言ってね〜」
「何度も言っているけど、もう罪滅ぼしの必要はないわよ…。対価が欲しいなら、さっさと言いなさい…」
ヘンリーには何か目的があるのではないか、といぶかしむサーリャは、これまでもそう問うてきた。
「僕も何度も言ってるけど、別に欲しいものはないよ〜。僕、人のお願い聞くの好きだし。あ、でもお弁当はこれからも食べたいな〜」
いつもの返事が返ってくる。ヘンリーはサーリャの弁当をいたく気に入っていた。お弁当を食べたい、と言われたところで、サーリャは少しだけ頬を染める。

しかし今日は、返事に続きがあった。
「ねえ、前、山に薬草を取りに行った帰り、僕が必要とされてるされてないって話になったよね」
血まみれのヘンリーを支えたあの日を思い出す。
「僕ね、戦いと呪いしか能がないから、戦争が終わるまでは必要だけど、その後はいらないかなぁって思ってたんだ」
ヘンリーは平気な顔で恐ろしいことを言う。
「でも誰かの言うことを聞いて、誰かの役に立ってれば、戦後でも必要になるのかも。生きてる意味があるのかも…そう思ったんだ〜」
その言い草に、サーリャの胸には怒りすらわいてきた。
「貴方…何も分かってないわ。無償の愛ってそんなものじゃない…」
「え? 違うの〜? じゃあどうすればいいの?」
「確かに、誰かのために何かをする…それは、大切なことよ…でも、それだけじゃない。
ただそばに居てくれればいい、そういう『必要』もあるの。
私なんて、ルフレがそばにいなくたって、見ることもできなくたって、彼がしあわせでさえあればいいと思うわよ…」
「ふ〜ん、そういうものなの?」
「そう。この間のノワール、もし貴方の子どもなら…きっと貴方、『ただそばに居てくれればいい』と思ってくれる子と結婚するんじゃないかしら…。ノワールだって、貴方を必要とするはずよ…」
「そっか〜」
ヘンリーは疑問に思いながらも、その言葉を飲み込もうとしていた。
「気になるなら、占うわよ…?」
「ううん、いいよ。先が分かっちゃったら面白くないしね〜」
そう答えてくれて、サーリャは内心ほっとした。ヘンリーの行く先は、知りたいけど知りたくなかった。

その後ヘンリーと別れ、早速手に入れた呪術具で研究をしていたが、夕方が近づいてきて天幕を出た。野営地に人はまばらである。もう少し夕飯の時刻が迫ってきたら、食事を求める兵士達がぞろぞろと集まってくるだろう。
ふいに、視界の端に2人の人影がよぎる。なんとなく引っかかるものを感じて振り返ると、片方はつま先立ちで不自然に歩く男ーーヘンリー。
ではもう1人は、というと、傾いた陽を浴びてたなびく髪がピンク色に輝く、竜騎士セルジュであった。
この2人が一緒にいるところを見るのは、これが3度目だった。最初はヘンリーがセルジュの愛竜ミネルヴァと戯れているところ、次は2人がミネルヴァから降りているところだった。
今日の一番の違和感は、常にセルジュの傍にいるはずのミネルヴァの姿がないことだった。

セルジュは軍の男性陣から人気があった。いつも穏やかな笑顔で、物腰も柔らかく、容姿端麗、ヴィオール家のメイドをやっていただけあって家事は完璧。怒ると怖いとの噂だが、それ以外は非の打ち所がないと言えるだろう。彼女に言い寄ろうとする男は多くいたが、大半は彼女の隣のミネルヴァに怯んでしまうのであった。
…ヘンリーは、ああいうのがいいのかしら。
サーリャは妙に納得した。幼い頃、温かい家庭が得られなかったのだから、家庭的な雰囲気の彼女に惹かれるのも無理はないだろう。ヘンリーは動物好きだから、ミネルヴァも障壁にはならないに違いない。
うららかな陽気の中、サーリャの胸は冷えていた。

気付いたときには、件の2人がこちらに近づいてきていた。
会いたい気分ではなかったが、ここで逃げ出すのも何なので、観念して2人が来るのを待つ。
「サーリャ、この呪い、あなたのなんですって? ひどい人ね」
セルジュがくすくすと笑いながら歩み寄った。
ヘンリーは相変わらずひょこひょこと歩きながら、「まあよくあることだよ〜」と笑ってみせた。
「解いてあげないの?」
「だめよ…ちゃんと3日間効力が続くか、確かめないといけないもの…」
「でもかわいそうだわ。たまには代わりに私を呪ってもいいわよ」
セルジュは優しい。あまりにも人間が出来すぎていて、相容れないな、とサーリャは鬱屈した気分になった。
「ミネルヴァは…?」
「ああ、今日はお留守番してもらっているの。ヘンリーはミネルヴァちゃんとばかり話したがるけど、私、ヘンリーとお友達になりたくて」
…まさか。ヘンリーがセルジュを好くのはともかく、セルジュがヘンリーに惹かれることなどあるのだろうか。でもミネルヴァを受け入れられる貴重な人材だろうし、そういえば美的センスがおかしいという噂もあったから、もしかして男の好みも…
「サーリャ? 顔怖いよ〜?」
「ヘンリー、女性に対して失礼よ。でもサーリャ、お願いだからそんな顔しないで。私、あなたともお友達になりたいの」
笑顔で語りかけるセルジュに、ああ、この女には勝てないと、舌打ちしたい気持ちに駆られたが、そうしてしまえばセルジュと自分の差がますます開くばかりなので、なんとか堪えた。
「ふん…馴れ合いなんて、くだらないわ…」
それでも、口をつくのはこんな言葉ばかりで、ますます自己嫌悪に陥った。
「あら。そんなこと言わないで、前向きに検討してもらえると嬉しいわ」
「ねえセルジュ、そろそろ偵察の続きしないと、夕ご飯の時間になっちゃうよ〜?」
「そうね。私たち偵察に戻るけど、今度サーリャとも偵察してみたいわ。またね」
去っていく2人の背中を見つめながら、「あの女、本当に呪ってやろうかしら…」という思いがよぎったものの、ますます自分が矮小な人間に思えて、頭を抱えた。

つま先立ちの呪いが解けた頃、各地で多数の屍兵や賊が同時期に暴れているという情報を入手し、2つの隊に分かれて討伐することになった。闇魔法使いは分散させた方がいいということで、ヘンリーとサーリャは別の隊に配属された。あのセルジュは、ヘンリーの方の隊になったと聞いた。
「あちらの隊、心配よね」
行軍しながら、サーリャと同隊になったティアモが、不安げに言った。
隊を分けるのは初めてのことだった。二手に分かれるということは、どちらかの隊に軍師がいないということである。本来このようなことはあってはならないが、屍兵や賊による被害が急速に拡大する中での苦肉の策だった。
ルフレはサーリャの方の隊を率いることになっていた。
もう1つの、ヘンリーがいる方の隊には、大将のクロムの他、フレデリクやミリエル、リベラといったしっかりもののメンバーを中心に据えていた。また、さほど強くない相手を討伐させることにしていた。
「そうね…一応、まじないはしておいたわ…気休め程度だけど…」
サーリャはヘンリーを一番心配していた。ルフレが居たって、彼はむやみに前線に飛び出したがるのだ。派手な戦いを好む彼が、敵の集団に突っ込んでも不思議ではない。仲間に制止されれば突撃はしないだろうが、仲間も自分の戦いに必死な中、止められる人がいるだろうか。

果たしてその不安は的中した。
2隊の合流箇所で再会したヘンリーは、またもや生死の淵を彷徨っていた。
敵の攻撃は急所をぎりぎり外れていて(これはまじないの効果かもしれない)、すぐさま杖で傷を塞いだが、失血と体力の消耗が激しく、あとは本人の頑張り次第という状況だった。

救護用の天幕で、青白い顔を見る。
「予断を許さない状況です。これ以上打つ手はありませんから、後は回復を待つしかありません」
側で観察する医療班員が、簡潔に説明した。
仲間達が、代わる代わる天幕を訪れては、ヘンリーに励ましの言葉をかけ、時には手を握り、去っていった。
サーリャはなかなか天幕を出ることができなかった。風前の灯火となった命を目の前にして、しばらく頭が真っ白であったが、気を持ち直してからは、ヘンリーの様子を注意深く観察した。…どんな呪術を使えば、彼を助けられるかを検討していたのだ。
杖も薬も、医療技術も全て使った。でもまだ呪術にはできることがある。ヘンリーを除くとただ1人の呪術師であるサーリャは、観察を終えると、自らの天幕にすっ飛んでいった。

目標は、ヘンリーの生命力の回復。
あまり大掛かりな呪術は使えない。大掛かりであればあるほど、必要とされる生贄も大掛かりになるため、限られた時間では入手が困難だからだ。
呪術書を紐解きつつ、比較的入手しやすい材料を中心に構成を考え、その材料を仲間に急いで集めさせた。
しかし、どうしても一部の材料が手に入らない。手に入らないのであれば、他の供物で代用するしかない。
サーリャは自分の生命力を大きく削ることに決めた。他の材料もあるし、命の危険まではないはずだ。闇魔法リザイアを呪いに応用するようなものだから、術式も難しくなかった。

道具を抱えて慌ただしく救護用天幕に戻ると、ヘンリーの顔はますます青白く、とても生きている人間のものとは思えなかった。
医療班員と仲間数名が見守る中、手早く準備をする。
「…始めるわ」
その言葉を皮切りに、呪術具を振り、薬草をすり潰し、壺に材料を入れていく。着々と儀式を進めながら、なぜか、あの日のヘンリーの儀式の所作を思い出していた。
最後の材料、今しがたヘンリーの頭から引き抜いた髪の毛を壺に入れ、その上から調合した液体を注ぐと、ぼっ、と煙が噴き出した。見守っていた仲間が、思わず声を上げる。
その瞬間、サーリャの目の前が真っ暗になり、痛みが全身を駆け抜けた。身体を丸め、ぐぅ、と呻いてやり過ごすと、今度は何かが引きずり出されるような感覚があり、力が抜けていく。
目測を誤ったか。思った以上に奪われていく熱にサーリャは焦ったが、徐々に視界が回復し、おそらく命だけは助かるだろう、と予測できた。
ぼうっとした意識でヘンリーを見やると、その頬には血の赤が差して、穏やかな表情になっていた。口元に笑みが浮かんでいるようにさえ見える。
良かった、成功だわ…と思った瞬間、ヘンリーの右手が動いていることに気付いた。人差し指が空を切って、魔法陣を描いていく。
ーー呪詛返しだ。
発動すれば、ヘンリーの体力がサーリャに吸い取られる。彼は死んでしまうだろう。
「だめ! やめて…!」
なぜ、などと考えている暇はなかった。乾いた喉で叫ぶと、最後の力を振り絞ってヘンリーに覆い被さり、両手の指を自らの指で絡め取った。押さえ込む体力はなかったが、体重をかけ、彼の手がなるべく動かないようにする。
何が起こっているのか分からない仲間達がざわついた。
彼の手はまだ魔法陣を描こうと抵抗していた。あと少し、あと少しだけ時間を稼げれば、この術が完遂すれば、呪詛返しは発動しない。お願い…お願いだから…
サーリャの意識が続いたのは、そこまでだった。

次に認識したのは、眼前の灰色だった。
それが救護用天幕の天井だと分かるまでに、少し時間がかかった。寝かされた身体が鉛のように重い。
そうだ、ヘンリーはどうなったのか。呪詛返しは…と思ったその時だった。
「気が付いた〜?」
間の抜けた声が左側から聞こえ、必死でそちらに首を向ける。そこにはいつもの笑顔で、ヘンリーが横になっていた。
「ふふっ。僕もう大丈夫なのに、『もう少し寝とけ』って言われちゃってさ〜」
言葉は出てこなかった。目の前のヘンリーが歪み、熱いものが溢れ出した。
「あれ〜? なんで泣くの〜?」
この男のために泣くなんて失態があってはならなかったのに。大失態だ。分かっていながら、止めることはできなかった。
そのまま声にならない声で泣いていると、ヘンリーがのそりと起き上がり、近くにあった布を取ってきて、涙と鼻水を拭きはじめた。
「どうして…」
サーリャは嗚咽しながら呟く。
「どうして、呪詛返しなんかしようとしたの…」
「サーリャこそ、どうして僕を助けようとしたの〜?」
やはりこの男には話が通じない。
「死にそうだったんだから…当たり前じゃない…」
「そんなことないと思うけどな〜」
ヘンリーは平素の笑顔だったが、今日は特別機嫌が良さそうだった。
「僕ね、とっても嬉しかったんだよ〜」
「…?」
「サーリャが、自分を削ってまで、僕を助けようとしてくれたこと」
サーリャの目からこぼれた雫をまた一粒拭う。
「そこまでしてくれる人ってなかなかいないよね〜。ありがとう。サーリャって、すごく優しいね〜」
「何よ…」
「だから呪詛返ししたんだよ。サーリャは優しいから、僕に体力吸い取られるのかわいそうだな〜って思って。それに僕すごく嬉しかったから、今死んでもいいやって思ったんだ〜」
「…だからって…だからって…!貴方、あんな穏やかな顔で死のうとして…!」
「あはは、そんなに穏やかだった〜?」
けらけらと笑う男を前に、とめどなく涙が流れていく。
「まあ結局2人とも助かったから良かったじゃない。よしよし、大変だったね〜」
あやすように言われ、顔を拭われ、まるで子どもだわ、と呆れていると、ふいにヘンリーの左手がサーリャの手を取り、指を絡めてきた。
「…っ!」
泣いていて、元々赤かった顔が、さらに紅潮する。
「よかった、あったかい。あの時のサーリャの指、氷みたいだったよ〜」
彼はそのままやわやわと手を握り、その感触を楽しんでいたため、さすがに気恥ずかしくて手を引き抜いた。
「あ、ごめんね〜」
「もう…何するの…」
拗ねたような様子に満足したヘンリーは、涙が落ち着くと、自分の毛布に戻り、サーリャをニコニコと見つめながらまた横になった。
サーリャは身体はヘンリーの居る左側に向けたものの、視線をそらした。その状態から、ちらちらと彼の表情を伺った。
そうしているうち、サーリャを睡魔が襲ってきたため、そのまま身を委ねた。

「ミネルヴァ、久しぶり〜!」
回復したばかりのヘンリーを、ミネルヴァは手荒く歓迎した。
じゃれあう1人と1匹を眺め、セルジュは微笑む。
「ミネルヴァちゃん、ヘンリーは病み上がりなんだから、優しくしなきゃだめよ?」
「大丈夫だよ〜、いつも通りで〜」
「うふふ。ミネルヴァちゃんね、あの戦いから、ヘンリーのことずっと心配してたのよ」
「そうなんだ〜。ありがと〜、ミネルヴァ」
ヘンリーはミネルヴァの頭部を両手で撫で回して礼を言った。
「ヘンリー、今日、サーリャのところに行ったのよね。具合はどうだったかしら?」
「うん、まだ安静にしなきゃだけど、もうすぐ治るって〜。ねえセルジュ、お見舞いって何持っていけばいいのかな〜? こないだ屍兵の脚持って行ったら、いらないって言われちゃって〜」
「そうなの…。実は私も、サーリャのお見舞いに行ったのよ。ちょうどそのとき、可愛い毛虫がいたから見せに行ったら、嫌がらせかって言われちゃって」
「そうなんだ〜。難しいね〜」
「あの…それじゃ、喜んでもらえないと思いますよ…?」
うなだれる2人を見かねて、声をかけたのはティアモだった。
「あら、ティアモ。立ち聞きとは趣味が悪いわ」
「す、すみません。サーリャの話してたみたいだから、つい…」
「うふふ、冗談よ。私達、お見舞いのセンスがないみたいなの。ご助言願えないかしら?」
「そうですね、やっぱり定番はお菓子とか花だと思います。あとは寝ている時間が長いから、暇潰しになるような本とか」
「なるほど〜、そんなの全然思いつかなかったよ〜! 呪術書でも持って行こうかな〜」
「じゃあ私は焼き菓子でも用意しようかしら。ガイアに取られないようにしなきゃいけないわね」
合点がいったように頷く2人に、ティアモは続ける。
「でもお見舞いに行って、話し相手になるだけでも励ましや暇潰しになると思うんです。体力のこともあるから長居は禁物ですけど、こまめに会いに行くといいと思いますよ。特にヘンリーは」
「確かにそうね。ヘンリーは毎日でもいいと思うわよ?」
「え、僕もう毎日行ってるんだけど〜」
「あらあら、ごちそうさま」
「ふふ、それなら良かったわ」
「う〜ん、よくわかんないけど、こまめに行くといいんだね〜?じゃあもう1回行ってこようかな〜」
「たまには1日2回でもいいかもしれないわね。ヘンリー、行ってきたら」
「そうね、ミネルヴァちゃんもよろしくって言ってるから、伝えておいて」
「は〜い」
ヘンリーはよく分からないまま、なし崩し的に本日2回目のお見舞いに行くことになったが、その前に自分の天幕にお気に入りの呪術書を取りに行った。

「…どうしてまた来たのよ…」
サーリャは呆れ顔だった。臥せってはいたが、顔色はあの儀式で倒れたときより、随分と良くなっている。
「この呪術書貸してあげようと思って〜。あと、ミネルヴァがサーリャによろしくって言ってたよ〜」
ミネルヴァ、という名前にサーリャは耳をとめた。ヘンリーはまたセルジュと会っていたのだろう。
「そう…分かったわ。じゃあセルジュの所にでも戻れば…」
「ううん、セルジュがサーリャに会ってくるよう言ったんだよ。あとティアモも。僕はこまめに君に会いに行った方がいいってさ〜」
「なんですって…!」
さすがに今回は、ティアモとセルジュの意図が理解できた。サーリャは耳まで真っ赤になる。
「…別に、貴方が来てくれなくたって、治るわよ…」
「うん、そうだろうね〜。でもせっかく来たんだし、ここにいてもいい?」
「…仕方ないわね…いいわよ。何か話したいことでもあるの…?」
「う〜ん、実はこれといった話題はないんだけど。一緒にいるだけじゃ、ダメかな?」
「…好きにしなさい」
それだけ言って、サーリャはごろりと寝返って背を向けた。
暇なら読んでいいよ〜と言って、持ってきた呪術書を差し出しても手を出さないので、ヘンリーは自分でその呪術書を読み始めた。時折サーリャに目を向けながら読書を進めていると、いつの間にか寝息を立て始めたので、呪術書を置いて外に出た。サーリャからは特に相手にされなかったが、ヘンリーは不思議と満たされていた。

最近心地よい陽気が続いていた野営地には、花がぽつぽつと咲いている。自然と会話できるヘンリーは、間もなく花の季節が訪れることを知っていた。
お見舞いには花がいい、とティアモに聞いたが、この分だと花ざかりになる前にサーリャの方が良くなりそうだ。
サーリャ、花は好きかなあ。
これから咲く種々の花に思いを馳せ、サーリャが元気になったらどんな花を見せてあげようか、と思いを巡らせた。

終戦後初めての冬が、訪れようとしていた。

「今年は、寒くなるみたいね」
暖炉に薪をくべながら、少女は言った。少女の薄幸そうだが端正な顔立ちには、母親の面影があったが、その月を思わせるような銀色の髪は、父親そっくりだった。
「そうね…」
母親ーーといってもほとんど年齢の差はないのだがーーはそう答えつつ、せわしなく手を動かす。毛糸が、帯のように編み上げられていく。暖炉の前に座る彼女は全身に黒を纏っていて、いかにも呪術師といった様相だが、今日握っているのは呪術具ではなく編み棒であった。
「母さんのそれ、きっと役に立つわ」
「そうだといいけど…ノワールの方は、準備できてるの…?」
「ええ、どんなケーキを作るかは決めたわ。材料は新鮮な方がいいから、買い出しは日にちが近づいてきてからにしようと思うけど…」
あの「ノワール」は、ヘンリーとサーリャの未来の娘だった。2人は数日後に迎えるヘンリーの誕生日に向けて、秘密裏にお祝いを用意しているところであった。
ノワールの趣味はお菓子作り。当日、ケーキを作ってお祝いする予定だ。
サーリャの手元にある編みかけの襟巻きは、ところどころ編目が歪んでいるが、丁寧に作られていることが伺われた。
「僕も好きな子にもらってみたいな〜」
襟巻きについて、そうヘンリーが言っていたのが昨日のように思い出されて、サーリャは思わず目を細める。
「それにしても父さん、ずいぶん遅いわね…」
「ええ…だって今日は、道草したくなる呪いをかけたもの…」
「ひいぃ!? 母さん、また父さんを呪ったの…?」
「仕方ないじゃない…最近あいつの帰りが早かったから、襟巻きの制作が遅れているの…。今日は呪いのおかげで、作業時間がじゅうぶん取れて良かったわ…」
「そ、そう…」
ノワールは呪いに怯えるが、この家庭ではいつもの光景だった。
「でもそろそろ帰ってくるはずよ…さ、今日はお終い。続きはまた明日ね…」
サーリャは編みかけの襟巻きを編み棒ごと布でくるみ、普段使わない引き出しの一番奥に突っ込んだ。
「それじゃ、スープを温め直しましょう…」
そうして夕飯の支度をしていると、程なくして外から声が聞こえてきた。
「サーリャ! サーリャ〜! 扉開けて〜!」
「何よ…騒々しいわね…」
台所をノワールに任せて玄関を開けると、両手いっぱいに荷物を抱えたヘンリーが、満面の笑みで立っていた。
手に持っているのは、野菜、果物、砂糖菓子、呪術やお菓子作りの本、花冠、薬草…ありとあらゆる道草で調達してきたお土産だった。
「ただいま〜」
「お帰りなさい…」
そう言って触れるだけのキスをすると、ヘンリーは油断したらしく、荷物のバランスが崩れてどさどさと落ちた。
「もう…仕方のない人…」
「あはは〜ごめんね〜」
床に落ちた荷物を2人で拾い、手分けして持って、ノワールの待つ台所に向かった。

<了>

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