――自己評価と、他者からの評価は、往々にして一致しないものである。
◇◇◇
一
その日の軍議は、当初の予定より少し遅れて開かれるように時間変更されていたのだが、どうやらその連絡が上手くいかなかったらしく、枢機卿の部屋には全体の半数ほどの参加者が既に集まっていた。
変更後の時間はそう遠くなく、一度外に出ても時間が短すぎてできることがあまりなさそうだったので、参加者達はそこで時間を潰すことにした。
仲間と立ち話をする者の他、軍議の資料に目を通している真面目な者もいる。その日のアッシュは後者だった。アッシュはいつもなら事前に資料を確認してから来るのだが、そのときはたまたま読めていなかったため、むしろ軍議が遅れて助かった、と彼は思っていた。
彼の右後ろあたりで、イングリットとアネットが雑談をしている。先程アネットが枢機卿の部屋に入ってきたとき、彼女が左手の小指に指輪をしているのにアッシュは気づいていた。お洒落好きなアネットは、時々装飾品を身に付けていることがあったので、特段不思議なことではない。
男は女性のそういったわずかな変化に疎いと言われるが、気遣いの人アッシュはどちらかというとそういうことにもよく気が付く方だった。ましてや、アネットは彼の想い人だったから尚更だ。彼女の様子はいつも気にかけていたし、最近はよく転ぶ彼女の動きを察知して、完全に転倒する前に体を支えることだってできるようになっていた。
後ろのイングリットもアネットの指輪に気づいたようで、話題として触れる。
「アネット。その指輪、綺麗ですね」
「ありがとう。これね、恋が叶う指輪なんだって!」
刹那、アッシュの思考が止まった。――今、何と言った。恋が叶う指輪?
そんなものをわざわざ付けるということは、今彼女が恋をしている、ということの証左である。
――――アネットには、好きな人がいる。
いや、彼女だって年頃なのだから、好きな男性の一人くらいいたって不思議はないのだ。冷静に考えればそうなのに、アッシュはそんなこと思いもせずに、悠長に片想いをしていた。彼女がいつ他の男の手に渡っても不思議ではない、そんな事実を急に突きつけられた。
もはや軍議の資料に並ぶ文字列など、頭には入ってこない。意識は引き続き、二人の会話を追う。
「アネットは今、恋をしているのですね! 全然、知りませんでした。どんな人なんですか?」
「えへへ。イングリットも知ってる人だよ。すごくかっこよくて、頼もしくて……。あ、そうだ、今日の午後にお茶会しない? 詳しい話してあげるから!」
アッシュはちらりと、横目で右後ろを伺う。そこには頬を染めた、恋する乙女そのもののアネットがいた。
「かっこいい人」。青獅子の学級の美形といえば、現在は隻眼になってしまったがディミトリ、それにシルヴァンあたりだろう。フェリクスだってなかなかのものだ。
「頼もしい人」。青獅子の学級を、ゆくゆくは国をも引っ張ってゆくディミトリに、寡黙だが何でもこなすドゥドゥーあたりが妥当なところか。
いずれにせよ、アッシュはその条件に自分は合致しないと考えた。自分は見た目もどちらかと言えば地味だし、幽霊を怖がって震えるあたり、頼もしさなど欠片もない。
アネットの、恋に溺れたその視線が、自分ではない他の男に注がれている――――アッシュはにわかに発狂しそうになった。
◇◇◇
全く身が入らなかった軍議が終わった後。
枢機卿の部屋には青獅子の学級の元生徒だけが残り、話し合いをすることになった。
実はもうすぐ先生の誕生日だ。秘密裏にお祝いの準備を進め、先生を驚かせたい。そのための作戦会議だった。
「アッシュ。……アッシュ! どうした? 意見を言ってくれ」
「…………はい!?」
ディミトリが、軍議前から呆けたままのアッシュに声を掛けた。ひと呼吸それに気づくのが遅れたアッシュは、慌てて返事をする。
「それでこのお祝いの料理のところなんだが……アッシュはどう思う?」
「え、ええと……すみません! その、どんな話でしたっけ……」
これまでの議論の内容が一切頭に残っていなかったアッシュは平謝りした。
「……アッシュ。今日のお前は、様子がおかしい」
「ああ。まさか、何かあったのか? 悩みがあるなら相談してくれ」
ドゥドゥーとディミトリがアッシュを気遣う。
「殿下。これはもしかして、恋の病、ってやつじゃないですかねえ」
シルヴァンが茶化すように言ったこの一言が、結果的に余計だった。
「何だって? そうか、アッシュ、そうだったのか。それなら俺も全面的に協力しよう。相手は誰だ」
ディミトリが真正面から切り込んだ。ディミトリは、こと色恋沙汰に関しては不器用で気が利かない。こんなに人が集まっているところで、ましてやアネット本人もいるところで名前など挙げられる訳もないのだが、それに気づかず「アッシュの力になりたい」という気持ちが暴走してしまっている。アッシュはうう、と呻きながら、真っ赤になってうつむいた。
「ちょ、ちょーっと殿下。さすがにそれをここで言わせるのは酷なんじゃないですか?」
慌ててシルヴァンが間に入る。
「そうか、すまない。だがせめて、どんな人物かだけでも聞かせてくれないか?」
「うぅ、それならまあ……その、僕よりずっとしっかりした人で……」
「おい、そこまでにしておけ、猪。これじゃ終わるものも終わらんぞ」
会議を終えて早く訓練に行きたいフェリクスが口を出したのをきっかけに、話の流れは元の議題に戻り、その後淡々と話し合いは進んでいった。
アッシュはアネットを「しっかりした人」と形容したが、その言葉に嘘はなかった。アネットは学生時代から計画的に勉強や訓練をするのが得意だったし、五年間で領主の補佐をしていた経験から、軍議でも彼女なりの視点の意見を積極的に出していた。きっと彼女はどこへ行っても仕事ができる女性だろう。
話し合いが終わり、青獅子の学級も解散となった。アッシュは気もそぞろに、枢機卿の部屋を出た。
彼は混乱する頭を鎮めるのに必死で、珍しく気がつかなかった。アネットが枢機卿の部屋の椅子で、立ち上がることもできずに呆然としていたことを……。
◇◇◇
二
その日の午後のお茶会は荒れに荒れた。
「うぅぅ……やっぱりあたしじゃ駄目なんだぁ…………」
「アネット……しっかりしてください。まだ駄目だと決まった訳じゃありません」
「そうよ、アン。アンだって、私よりずっとしっかりしているわ〜」
ぽろぽろと涙を流し、震えた手で紅茶を飲みながら沈み込むアネットを、イングリットとメルセデスが懸命に励ます。
実はアネットの想い人もアッシュだった。
彼女にとっては、戦場で弓を繰る彼も、転びそうなときに支えてくれる彼もかっこよく頼もしい。
そんなアッシュにもまた好きな相手がいると知り、それが自分だとは夢にも思わぬアネットは、失意に飲み込まれようとしていた。
「だってあたし、お鍋爆発させてアッシュにお片付け手伝わせたことだってあるし、いつも転びそうになったらアッシュが支えてくれてるし……あたしのこと『しっかりした人』なんて言う訳ないよ……」
二人の激励も今のアネットには届かない。
「そんなことないと思いますけど……。メルセデス、どうしましょう」
イングリットは困り果ててメルセデスに助けを求める。
「そうね……。アン。確かに恋って実らないこともあるわ。でも、諦める前に、きちんと確かめたらどうかしら。諦めるなら、それからでも遅くないと思うわ〜」
「それって告白しろってこと!? そんな……振られるって分かってて告白なんて、辛すぎてできないよ……」
アネットは恋の結果をはっきりさせるのが怖かった。相手の気持ちを確かめずにあやふやにしておけば、相手に恋人ができない限り、深く傷つくこともないし、ずっと密かに想うことはできる。その恋心を手放す自信が、まだなかった。
「アネット。私はメルセデスに賛成します。確かに、自分の大切な人と結ばれないと決まってしまうのは辛いことです……。でも、そうなってから初めて、次に進むことができるのかもしれません」
イングリットは昔に許婚を亡くし、一時は引き込もるほどのどん底にあった時期がある。彼女にとっては辛い過去だが、それを乗り越えてこそ今の自分があると、イングリットは考えるようになった。
「うぅ、イングリットまで……。……あたしだってわかってるよ。きっと、二人の言うことが正しいんだろうなって。でも、今のあたしにはできないよ……!」
そう言ってアネットは席を立つ。止める二人の方にも振り向かずに、寮の自室に真っ直ぐ向かうアネットの頬には、一筋、また一筋と、次々に涙が伝っていた。
◇◇◇
三
自室に着いたアネットは、夕刻まで泣きじゃくりながら寝台に転がっていた。
徐々に涙が収まってきた彼女の目に入ったのは、左手の小指にした指輪。アネットの沈む心などよそに、銀色に輝いている。
ああ、恋が叶う指輪なんて、ただの嘘っぱちだったんだなあ。
そう思うと、もう見るのも嫌になってくる。アネットはようやく立ち上がり、部屋を出てある場所に向かった。
◇◇◇
アッシュはあれから温室にいた。
温室の世話当番だった訳ではない。彼はめちゃくちゃな心を少しでも落ち着かせるために花でも見ようと思ったのだ。温室管理人に声を掛けられるのにも構わず、床に座ってぼんやりとしていると、空はもう夕焼けになっていた。
温室を出て、ふと釣り池の方を見やると、釣り場の桟橋の方に向かうアネットの姿が見えた。
距離があったので顔までは見えなかったのだが、何か様子がおかしい。気になって彼女の後を静かに追う。
桟橋の先で、アネットはしばらく佇んでいた。
何かあったのだろうか、声をかけようかと迷っていたとき、アネットが右手を左手の指に掛ける。どうやら今日していた指輪を外しているようだ、とアッシュは気づいた。
そして、アッシュが「あっ」と言う間もなく――アネットは大きく振りかぶって、その指輪を池に投げ入れた。
ぽちゃん。
アッシュにはその音こそ聞こえなかったが、遠くの方で水が跳ねるのが僅かに見えた。
「アネット!」
気づいたらアッシュはアネットの名を呼んでいた。振り向いたアネットの顔は、つい先程まで泣きはらしていたのがよく分かって、アッシュは戸惑った。
「アネット、どうしたんですか。その指輪、恋が叶う大切なものじゃないんですか?」
「えっ、アッシュ、なんでそれを知ってるの? ……そうなんだけどさ……もう要らなくなったから」
この泣き顔を見れば、恋が実ったから不要になった、という訳ではないのがよく分かる。アネットは想い人に振られてしまったんだろうか。それが苦しくもあるけど、ほっとしてしまった自分がいることにも気づき、アッシュは自己嫌悪に陥った。
「そんな……君を振るなんて、誰が」
「……別に振られた訳じゃないけどさ。……その人……好きな人が、いるって…………」
止まっていたはずの涙が、またぽろぽろと、アネットの双眸から零れた。
「アネット……大丈夫です。今は辛いと思いますが、きっと他にも君を見てくれる人が……」
「アッシュにはわかんないよ!」
あたしの気持ちなんて、と続けて泣き出したアネットに、手巾を手渡しながらアッシュは言う。
「わかります。……僕にも、わかります。だって、僕の好きな人にも、他に好きな人がいましたから……」
アッシュは沈痛な面持ちでアネットを見つめた。
そのとき、アネットの脳裏に、お茶会でのメルセデスの言葉がよぎった。
『諦める前に、きちんと確かめたらどうかしら』
今アッシュは、アッシュの想い人もまた、他の誰かを好きだったと言った。ということは、アッシュも失恋しているのかもしれない。ならば、もしかしたら自分にも、可能性があるのではないか。ならば、最後の一撃として言ってしまえ。
今日は後ろ向きなことばかり言っていたアネットだが、元来の彼女の性格はむしろ前向きだ。アネットの小さな体に、一気に衝動が走った。
「あたしはね! アッシュが好きなの!!」
「へっ?」
思いもよらぬ返答にアッシュは目を丸くした。
「なのに人の気も知らないでさ、僕にもわかりますとかさ、他にも君を見てくれる人がとかさぁ……あたしは、アッシュに見てもらえなかったら意味ないのに……」
ええいままよと、どんどん恨み節のようになっていく。唖然としたアッシュを見て、少しは衝撃を与えられた、いい気味だ、などと、アネットは心の中で少しだけ毒づいた。
ぽかんとしていた様子のアッシュは、ようやく口を開く。
「ええっ、どうして……僕もアネットが好きですし、他に好きな人なんていませんよ?」
「へっ!?」
今度はアネットが驚く番だ。
「えっ? だってアッシュ、今日しっかりした人が好きだって……」
「あれは君のことを言ってたんです……」
消え入りそうな声でそう言うアッシュは真っ赤だ。
「君の方こそ、かっこよくて頼もしい人が好きなんじゃないんですか?」
「ねぇそれ、だからなんで知ってるの……あたしもそれ、アッシュのこと言ってたんだよ?」
鼻をすする彼女の顔が真っ赤なのも、泣いていたせいだけではないだろう。
「……まさか君が、僕のことをかっこよくて頼もしいと思ってくれてるなんて知りませんでした」
「あたしも、まさかアッシュがあたしのことしっかりしてると思ってたなんて……えへへ。お互い勘違いしてたなんて、なんだかおかしいね」
アネットのその日一番の笑顔が、夕日に照らされて輝いた。
二人がはにかみながら見つめ合っていると、アネットはあることに気付く。
「あー、じゃあ『恋が叶う指輪』って、ほんとに効果あったのかも! 投げ捨てちゃって悪いことしちゃったな」
少し気まずそうに言う彼女に、アッシュは答える。
「ええ、叶ったから良かったとはいえ、あれ、綺麗でしたし勿体なかったですね。……でももしアネットがまた指輪が欲しいなら、今度は僕から贈らせてください」
「えっ? それって……」
「どの指でも、いいですよ」
お互い恥ずかしそうに笑うアッシュとアネットの後ろで、夕日を反射した水面が光る。その水面に負けないくらい、二人の心はきらめいていた。
◇◇◇
――自己評価と、他者からの評価は、往々にして一致しないものだ。
夫婦となったアッシュとアネットがこの世を去った後も、ガルグ=マクの釣り池の底には、恋する乙女の涙と笑顔が詰まった銀の指輪が眠っている。
〈了〉