そのままのあなただから

 フィレネ付近に突如現れた異形兵と、軍が交戦した翌日。神竜は今日は休養日にしようと、皆をソラネルに集めた。

 スタルークは一応は武力の国ブロディアの王子であるから、午前中は鍛錬に勤しんでいた。自分の得物は弓だが、兄は剣使いなのに弓の腕前でもスタルークを優に超えていた。さすがは尊敬する兄だが、弓兵としてそう簡単に負けてもいられないので今日も必死に弓を引いた。その後アルフレッド王子に捕まり、ひいひい言いながら筋肉体操をやりきったところである。

 少しゆっくりしたいと、部屋で汗を拭って体操着から私服に着替える。さて、今日はこれから何をしよう、まずは昼食をとってから、ゆっくり本でも読もうか……と思ったそのとき。スタルークは窓から部屋にそそがれた陽だまりに気づいて、つい窓辺に出た。真昼の陽の光が自分の黒く醜い性根を照らし出すようで、なんとも眩しい。この気持ちには覚えがあった。
 スタルークは窓の外を眺めつつ、あるひとのことを思い出した。
 
 それはほんの先日までのこと。彼は今陽の光を眩しいと感じているのと同様に、仲間の一人であるイルシオン第二王女、オルテンシアのことを善良で眩しく思っていた。
 とある日、スタルークからオルテンシアに相談事を持ちかけたにも関わらず、彼女の輝くさまと情けない自分を対比してしまい、いたたまれなくなって逃げ出した。それ以後彼女と出くわすと、二言、三言と言葉を交わしたところで、どうにもいられなくて逃げてしまっていた。このような価値のない自分とオルテンシアのような善意のひとが、ほんの少しの時間を共有することでさえ、彼女の人生を損なうだろうとスタルークは本気で思っていた。
 スタルークが初めにオルテンシアに持ちかけた相談事とは、「自信の付け方を教えてほしい」というものだった。それなのにスタルークが実際にやっていたのは、彼女から逃げ回り続けることだった。だからオルテンシアから「協力するのをやめた」と言われたときは、これで彼女と自分の人生が交差することはない、これで彼女は救われるのだと安堵すら感じたのだ。

 しかしオルテンシアの考えは逆だった。彼女はスタルークの後ろ向きな姿を受け入れると言った。これはスタルークの考えとは違い、これからも彼女が自分に関わり続けること、オルテンシアの中にはスタルークという存在が今後も有り続けることを示していた。
 それを言われるまでのスタルークは、オルテンシアから拒絶されることが自分の安らぎだと思っていたが、逆にこうして自分の生きる様をそのまま受け入れられることが、どんなに心身を解してくれるものなのかを初めて知った。このときのスタルークの感情こそが、真の安堵だったに違いない。だからスタルークは、いくらオルテンシアが眩しく感じようと、もう彼女の前で後ずさる必要はないと悟った。
 
 ところが、だ。そう安らいだスタルークの前から、今度はオルテンシアの方が逃げ出した。彼女はスタルークを「可愛い」と称し、自分の立場がないなどと言って逃げてしまった。今までとは全く逆の展開だ、とスタルークは思った。
 ことオルテンシアは「可愛い」という事象に対しておよそ全ての感情を向けていたし、審美眼は確かだろうから、彼女がスタルークの瞳を「可愛い」と称したことが、彼にとってはいささか不思議だった。昔のことはスタルーク自身もよく覚えてはいないが、「可愛い」なんて言葉は幼少期の一時期以来、ずっと言われていなかったように思う。まだ成年には満たないとはいえ、それなりにいい歳の男だと自分では思っていたから、ここにきて見る目の厳しそうなオルテンシアが自分に「可愛い」という言葉を投げかけてきたことに疑問はあった。
 そんなオルテンシアに対する、ちょっとした疑問。それはいつしか好奇心に育っていた。

 そう振り返っていると、ぐう、とお腹が鳴ったので、陽だまりの中で思い出したことを一旦横に置いて、昼食のために部屋を出た。ところがカフェテラスに向かうと、そこに居たのはつい先程まで頭の中にいたそのひとだった。遠目から見てもオルテンシアのくるんと巻かれた桃色の髪はよく分かる。惹かれるように近づいていくと、ぴょこ、と2つの輪が揺れた。
「ス、スタルーク王子……?」
 見開かれた瞳の色は髪と同じだ。彼女が思ったより大きく反応したので、スタルークは反射的に頭を下げた。
「! すみません……! 驚かせてしまいましたか?」
「いいえ。ちょっと、油断してただけよ」
 いつも頭の天辺から爪先に至るまで可愛くあろうとしているオルテンシア——彼女自身が以前そう話していたのだが——が油断していたというのは少し意外だったが、おおかたお腹が減って気が散っていたのだろうと想像した。
「お昼、まだですか? 僕も今から食べようかと思って来たんです」
「そう。喜んで、今日の料理当番はボネよ」
 ソラネルでは皆が料理を作るから、異形の食事が錬成されてしまうこともしばしばあった。それだから、料理を生業としているボネが当番であることは非常に幸運なことだった。台所に立つボネを目線の少し先に認め、スタルークの頬も思わず緩む。
「よかったです。あの、隣、失礼しても……?」
 不意にそう言われてまた目を見開いたオルテンシアよりも、それを言ってしまったスタルーク自身のの方が倍は驚いていた。先刻オルテンシアの前に自分が現れ、驚かせてしまったと詫びたばかりなのに、自分はさらに彼女の隣の席に座ろうとまでしていた。自然に出てきた言葉の内容を彼自身も予期していなかった——カフェテラスの座席はそれなりに空いているというのに。
「あっ……! すみません、僕と食べても料理が不味くなるだけですよね……!」
 大慌てでまた頭を下げると、オルテンシアはかぶりを振って、桃色の輪がまた揺れた。
「構わないわ。どうぞ」
 スタルークが求めた通りに、オルテンシアは隣の席を手で指し示した。既に落ち着きを取り戻したようだった。促されるままにスタルークは、小声で礼を言いながら、彼女の隣の席に着く。円卓は広めだから、今スタルークが席からオルテンシアに手を伸ばしたとしても肘にまでは触れられない程度の距離だ。そう無意識に彼女との間合いを測ってしまったのは何故だろう、とスタルークの頭に疑問符が浮かびそうになったとき、おいしそうな匂いとともにボネが二人前の料理を運んできた。
「お二人とも、お待たせしました。ぜひご賞味ください」
「ありがとう。あなたの料理、楽しみだわ」
 そうオルテンシアはボネに声を掛けると、今日はどんな材料を使ったのかだの、どうお料理したのかだの、いくつか質問を始めた。ボネは料理人らしく丁寧に答えたが、会話をしているうちにボネがスタルークの髪留めの味を知りたいなどと言い出したので二人で丁重に追い返した。
「まったく。ボネって、あれさえなければ完璧なのに……」
 スタルークはそのとき「なぜオルテンシアは料理の質問を熱心にしていたか」と、「なぜオルテンシアはボネを完璧と評したのか」の二つのことが気になったが、ひとまず前者について尋ねた。
「ずいぶん料理のことを聞いていましたね」
「ええ。今、ゴルドマリーにも教えてもらってるの」
 確かにオルテンシアの臣下のゴルドマリーも料理上手で評判だった。彼女にも教わっているのなら、尚更料理に関心があるのだろう。
「練習しているんですか?」
「ええ」
「素晴らしいですね。何かきっかけがあったんですか?」
「別に。ただあたしは主として、ゴルドマリーに見劣りしたくないだけよ」
 オルテンシアが努力家であることは、まだ仲間になって日が浅いうちからスタルークにも伝わっていた。今もまたその向上心にスタルークが驚いていると、オルテンシアは料理を食べながら、少しずつゴルドマリーのことを話し始めた。
 聞くと、先日ゴルドマリーは町の男性に突然告白され、断っていたという。このようなことは一度や二度ではないらしく、ゴルドマリー本人いわく「モテている」そうだ。オルテンシアはそんなゴルドマリーの魅力を賞賛しつつも、少しの悔しさを滲ませたようにスタルークは感じた。それでつい問うてしまった。
「あの……オルテンシア王女は、モテたいんですか?」
「そうね、できれば誰よりもモテたいと思ってるわ。……そもそも、なんであたしはこんなに可愛いのにモテてないのかしら?」
 真剣な眼差しで頬を膨らませたオルテンシアは、本人が「可愛い」と自称するそのものだとスタルークは感じた。スタルークだけではない、日頃から周囲の誰もがオルテンシアを可愛いと認めている。しかしオルテンシアが言うにはモテていないらしいので、スタルークは今一度、彼女とゴルドマリーの違いについて考える。
 表面上の話になるが、オルテンシアは思ったことをはっきり言うのに対し、ゴルドマリーは一見物腰柔らかである。ゴルドマリーが謙遜しているようで自分を相当に誇っていることをスタルークは知っていたが、関わりが薄い異性にはそれを見抜けないのかもしれない。スタルークはここまで考えたものの、この考えを伝えたところでオルテンシアは喜ばないだろうと思ったので言うのをやめた。それで口をつぐんだスタルークに、オルテンシアは水を向けてきた。
「ねえ、スタルーク王子! あたしに足りないものって何かしら?」
「オルテンシア王女に足りないものなんてないと思いますけど……」
 そう素直に言ったものの、オルテンシアは納得しない様子だ。
「それってあたしが完璧だってこと? あなたにそう言われて悪い気はしないけど……現状モテてない以上、なにか改善できることはあるはずよ」
「……オルテンシア王女は努力して可愛さを追求しています。その努力は素晴らしいですし、実際にあなたを可愛くしていると思います。でもよく考えると、可愛いとモテるは同義ではないかもしれません。何か『可愛い』とは別の方向の努力が必要かもしれませんね……」
「『可愛い』とは別の努力……? うーん、一理あるわね。でも、具体的にどんな努力が必要かわからないわ。……質問を変えるわ。スタルーク王子、あなたはあたしのどこが変わったら、あたしを好きになると思う?」
 急にそう言われて、スタルークの喉からひゅ、と空気が通り抜けた。口に含んでいた料理を吹き出しそうになったのをすんでのところで堪える。
「ええっ、僕がオルテンシア王女を……!?」
「ちょっと! その反応、あなたがあたしを好きになるなんて全然あり得ないってこと? 失礼ね!」
 にわかに怒り出したオルテンシアにスタルークは焦った。
「違います! オルテンシア王女、逆です。僕みたいな卑しく下等な人間があなたに恋心を抱くなんてことがあっていいはずないですから、その発想がありませんでした。それで驚いただけで……」
「……そう。ちょっと参考になったわ」
「えっ!?」
 スタルークはいつも通り自虐したが、それが何かの参考になるとは思っていなかったので耳を疑った。スタルークは常日頃から自分を卑下することをやめられなかったが、それが時には人を不快にし、時には人に気を遣わせることも分かっていた。だからこそ、自分の悪癖が人の役に立つとは信じられなかった。
「今までのあなたの話からすると、要するにあたしが完璧だから近寄りがたいってことでしょ? なるほど、そういうことなら納得するわ。あたしにはイルシオン第二王女って立場もあるものね」
 オルテンシアはスタルークが悪癖を披露したときでも、彼をむやみに励ましたりはしない。そして彼が彼自身を蔑むことを否定もしない。スタルークは今交わした会話の中でも、オルテンシアが彼のそのままを受け入れてくれていることを実感した。
 そのことにスタルークが感じ入っていると、オルテンシアはいつの間にか彼女のもう一人の臣下ロサードの話をしていた。聞くと、ロサードは男性でありながら一目ではそうわからない可憐な外見をしていたが、あの見た目は努力を尽くして得たというより自然に持っている魅力らしい。オルテンシアは髪のお手入れを念入りにしているのに、ロサードはあの美しい髪をざかざか洗ってろくに乾かしもせずに維持しているのだと、また少しの嫉妬を滲ませながら語った。そのように他の誰かを羨みながらも、自尊心も決して揺るがさずに腐らず努力しようとするさまはスタルークにはとても好ましく、そして微笑ましく映った。時には不平も言うが、小さな身体でいつも元気で前向きなオルテンシアをスタルークは愛らしいと思った。と、そこで、彼女の「どうしたらスタルークが自分を好きになるか」という問いの答えを知る。それを自覚して頬にかっと熱が走ったのをスタルークは感じたが、素直なオルテンシアに自分が思ったことを素直に伝えることにした。
 
「……もしかしたら、僕はオルテンシア王女がこれ以上何もしなくても、もうあなたを好きなのかもしれませんね……」
「! ……だめよ、スタルーク王子。そういうことを軽々しく言うと、誤解を生むわよ」
 その時オルテンシアの顔も茹だって、彼女が頬に差しているハートの化粧がほとんど見えなくなるほどであった。その時スタルークは「これは軽々しい気持ちで言っている訳ではない」という旨を伝えようと思ったが、それはやめておいた。
 きっと今はその時ではないと、そう思ったから。

〈了〉

スタオルのページに戻る