再会

 空が夕日に染まる頃、大きな鎧と盾を身に着けた初老の男が宿屋の扉をくぐった。今宵の寝床を確保し、鎧や荷物を手早く下ろした後、身支度を整えて食堂に足を踏み入れる。

 橙色の髪を後ろで固く縛ったその男は、深く皺の刻まれた顔の割には随分逞しい。背筋の伸びたその佇まいから、彼が只者ではないことが伺える。実際、かつてその男はファーガス神聖王国に長年仕えた騎士であった。

 オグマ山脈にほど近い町にあるその宿は、古ぼけてはいるがよく清掃されていた。木の食卓と椅子がいくつか並ぶその食堂を見渡すと、宿泊客はまばらだ。無理もない。現在はアドラステア帝国との戦争や、政変により生まれた「ファーガス公国」と名乗る勢力が帝国と手を組んだことによる情勢の混乱で、治安は悪化し、旅行者はおろか商人の行き来すら滞っている。
 だから食事も決して贅沢はできないが、先客の食卓からは、食欲をそそる匂いが漂ってくる。簡素な夕食のようであるが、料理人の腕が良いらしい。

 男が食卓につき待っていると、奥の方からお盆に食事を載せた青年が現れ、こちらに来るのが見えた。その青年の顔には、見覚えがあって――男が目を見開くのと、青年が声を上げるのはほとんど同時だった。
「……ギルベルトさん! ギルベルトさんですか?」
「……お前は……」
「アッシュです、お久しぶりです。ガルグ=マクではお世話になりました」
 銀髪と薄緑の瞳の青年が、そばかすの浮かぶ頬をほころばせ、一礼した。

「……背が伸びたな」
「ありがとうございます。あの頃よりは、大きくなれました」
 食後、アッシュが厨房の仕事を終えるのを待ってから、ギルベルトは彼を自分の居室に招いた。椅子と寝台にそれぞれ座り、膝を突き合わせると、ガルグ=マクの士官学校で過ごした日々がにわかに思い出される。
 そう、アッシュは戦争が始まる前、士官学校の生徒だったのだ。ギルベルトはそこで彼に出会い、出撃に同行したこともあった。
 その頃の彼は騎士を目指していると言っていた。それがどうして、こんな宿屋の厨房になど居るのか。
「アッシュ……なぜお前がここに」
 当然の疑問をぶつけたギルベルトに、アッシュは少し俯きつつ、これまでのことをぽつりぽつりと話し始めた。

 彼は故郷ガスパール領に戻るも、領主も跡継ぎもいない領内は荒れに荒れ、手の施しようがない状態であったという。実のところ、アッシュは亡くなった元領主ロナート卿の養子なのだが、元は平民の出だ。混迷の世の中、そんな彼に領主を任せられる訳もない。
「それで私は、隣のローベ領にお仕えしていたんです。ガスパールから逃げ出すようなことをしてしまいましたが……弟達に、仕送りも必要でしたし」
 アッシュは唇を噛んだ。その様子にギルベルトの顔も陰る。
「しかし、ローベ領は既に帝国の手に……」
「はい、おっしゃる通りです。その時に、私はお暇をいただきました」
 王国の騎士を目指していたアッシュにとって、帝国に与するのは耐え難いことであったのだろう。もし自分が彼だったら、やはり彼と同じように下野するだろうと、ギルベルトは思った。
「それからは、行くところがなくて……こうして厨房の仕事を転々として、仕送りをしながら暮らしているんです。元は酒場の息子でしたから、料理は得意で」
「そうか……」
「……この情勢なので、私も本当は弓を取って国のために戦いたいんです。でも、どの領も次々に、帝国への臣従を表明していますから……。民兵になるにも、東部の方まで行かないと」
 確かに王国の東部以外は、既に帝国の臣下に入っている状況だ。東部では三領主が、帝国の息がかかった公国と必死で戦っている状況であった。しかし東部の方まで行ってしまうと、物流が滞っている昨今、弟達への仕送りが届かなくなる可能性があるからそれを諦めたのだと、アッシュは力なく言った。

「あの……ギルベルトさん。僭越ですが、私からも聞きたいことがあります」
 アッシュが姿勢を正し、改めてギルベルトに向かう。
「私に、か……。何だろうか」
「……学生時代にアネットから聞きました。あなたが、本当はアネットのお父上であると」
「…………」
 ギルベルトは押し黙った。それは王国と家族を捨て出奔した彼がガルグ=マクでずっと秘密にしていたことで、なおかつ彼にとっては一番突かれると痛いところであった。
 しかし沈黙が答えとばかりに、アッシュは言葉を継ぐ。
「教えてください。ドミニク領は、既に帝国の配下になったと聞きました。領主様……あなたの兄上のところに、アネットも帰っていると聞いています。……アネットは、無事なのでしょうか」
「…………無事、だと聞いている。ただ、実際に私の目で見ている訳ではないが……」
 絞り出すように言った言葉を皮切りに、今度はギルベルトがぽつぽつと語りだした。

 ギルベルトはドミニク領に帰れず、一時は王国東部、フラルダリウス領に身を寄せた。フラルダリウスは反帝国派の領のひとつだ。その領主ロドリグ候とは旧知の仲で、そのつてを頼った。
 娘アネットの状況は、ロドリグの情報網から人づてに聞くばかりだというが、現在はドミニク領主の補佐をしているということだ。
「……そうでしたか。何もないといいのですが……」
 アッシュの瞳がこれまでにないほどに揺れたのにギルベルトは気づいたが、どうすることもできなかった。そもそも自分が、家族を残して出て行かなければ、彼を安心させることもできたかもしれない。ギルベルトはもう何度目かも分からないが、今日もまた自分を責めた。

「……ところで、ギルベルトさんはなぜ一人でここに居るんですか? お付きの兵などは……」
 アッシュが一度息を吐いて気を取り直し、次の話題に移る。ギルベルトも重い息を吐いた。
「今我々は、殿下を探している。もちろん兵にも捜索をさせているのだが、私も時間を見つければ、こうして情報収集をしているのだ。居てもたってもいられなくてな……」
「殿下を……!? 殿下は、政変のときに処刑されてしまったと聞きましたが……」
 目を丸くしたアッシュに、ギルベルトはゆっくりと語りかけた。
「ああ、公にはそういうことになっている。しかし、その亡骸を見た者は誰もいないという。……だからと言って、私も殿下の生存をすぐには信じていなかったが、ある噂を辿っていて……今は、それが確信に変わりつつあるところだ」
「……そうだったんですね。殿下が生きていれば、いつかは……」
「ああ、いつか必ず、機会は巡ってくるはずだ。王都を取り戻し、帝国を倒せるそのときが」
「その手がかりを、ギルベルトさんは探しているんですね……」
 アッシュの目が少し光を取り戻したのを、ギルベルトは見逃さなかった。
「そうだ。……アッシュ、良ければ私と一緒に来ないか。殿下の捜索に、人手が少しでも欲しい」
「えっ、私ですか!? ……そうしたいのはやまやまですが、私は平民で、騎士として叙勲を受けた訳でも、兵団に所属している訳でもありません。このような状況で、階級にそぐわない私が行くことで、ギルベルトさんに迷惑がかかるかと」
 もどかしそうに、アッシュが下を向く。
「そうか……。とても残念だが……」
「でももしよろしければ、明日拠点に戻るまでお供しましょうか? お付きの兵もいない状況では、何かあったときが心配ですし」
「……そうか、ありがとう。よろしく頼む」
「はい! よろしくお願いします!」
 勢い良く立ち上がって深々と礼をしたアッシュに、ギルベルトもまた、立ち上がって一礼した。

 翌日の夕刻まで、二人は共にごく短い旅をした。
 殿下ことディミトリが殺戮を繰り返しているかもしれない、とギルベルトから聞かされたときのアッシュは多大に衝撃を受けたが、それでもディミトリの生存を望み、ただひたすらに進んだ。
 町で情報を集め、時には賊や魔獣を撒き、武器を取るべき場面では勇敢に戦うと、あっと言う間に日が傾いた。

 ギルベルトはその日のアッシュの活躍に目を見張った。
「アッシュ、お前の弓の腕は全く衰えていないな。それどころか随分成長している」
「ありがとうございます! 今は厨房で働いていても、このご時世ですし、自分の身は自分で守らなければならないので」
「そうだな……。アッシュ、もし殿下が戻られたら、やはりお前にも来てもらえないだろうか。殿下の一声があれば、お前が徴用されて不平を言う者もいないだろう」
「はい! もしまたお役に立てるときが来たら、よろしくお願いします!」
 アッシュはやはり深々とお辞儀をして、拠点の近くで別れようとしたところで、ふと、あることを思い出した。

「ギルベルトさん。もしかして、何かの役に立つかもしれないのでお伝えしますが……五年前の星辰の節、青獅子の学級のみんなで、五年後にまたガルグ=マクに集まろうという話をしたことがあるんです。私は行くつもりですが……もし殿下がそれを覚えていたら、殿下も来られるかもしれませんね」
「なるほど、ありがとう。情報のひとつとして、頭に入れさせてもらう」
「ありがとうございます。ではお気をつけて! ……いつか、また会いたいですね」
「……ああ、無論だ」
 二人はそこで別れ、ギルベルトは拠点へ、アッシュは町へと戻っていった。

 その後も捜索を続けたギルベルト達だったが、数月後の星辰の節、ついにそのときは訪れた。

 ある晴れやかな朝、ギルベルトのもとに、兵たちによって待ちに待った朗報が持ち込まれたのだ。
「……そうか、ご苦労だったな。やはり、大修道院か。……行くぞ」
「はっ!」
 勢い良く返事をして散っていく王国兵を尻目に、ギルベルトはひとりごちた。
「……殿下。今、お迎えにあがります」

 久方ぶりに訪れたガルグ=マクは賊に荒らされ、まるで廃墟のようだった。いよいよギルベルトがガルグ=マクの外周まで来て、捜索を始めようというときだった。
「ギルベルトさん! こっちです!」
 自らを呼ぶ声に驚いて振り向くと、木の陰にアッシュがいて、手を上げて合図をしている。
「…………アッシュ」
「こちらから行くと近道なんですよ」
「そうか……私もここには居たが、こんな道は知らなかった」
「ここは、学生時代に鍛錬していたときによく走っていた道で」
少しの会話をしながら、中心部にどんどん近づいていく。
「ギルベルトさんがいるっていうことは、やはり殿下もここに……」
「ああ、やっと、掴むことができた」
「思ったより早くお会いできて、よかったです。殿下がいれば、百人力ですし」
 ここに賊が入り込んでいるのはお互い気づいているのだが、それでもアッシュはどこか嬉しそうだ。
「それにギルベルトさん……きっと、アネットにも会えますよ」
「…………」
 やはり押し黙ったギルベルトであったが、二人はようやく見つけた一筋の光に高揚しながらもガルグ=マクを駆けた。

 ガルグ=マクの中心部には、やはりディミトリがいた。その側には、行方が分からなくなっていたはずの先生の姿も見える。事情は分からないが、軍師としても兵としても相変わらず冴えていたので、その指示に従うことにする。ギルベルトが大きな盾を持って先行し、後ろからアッシュが弓で援護した。

 そして――――敵の向こう、少し離れた位置に、ギルベルトと同じ色の髪が揺れるのが目に入った。
「……アッシュ、行くぞ。援護してくれ」
「はい!」
 二人は一斉に地面を蹴り、走り出した。

〈了〉

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