何も無くても

 まだ夜も明けぬころ、しん、と静まり返った寝室でオルテンシアは目を覚ました。
 わずかに聞こえるのは、オルテンシアと同じ寝台で眠る男の寝息。夜闇のように深い藍色の髪が少し乱れ、彼の端正な顔にかかっている。

 上体を起こしながら、ふと、眠る前のことを思い出す。この部屋はオルテンシアではなく隣の男、スタルークの部屋だ。昨夜、オルテンシアは初めてこの部屋に足を踏み入れた。恋人の部屋を訪れるということは、まあ、そういうことになるかもしれない。どちらに転ぶかわからなかったが、オルテンシアは期待と不安を抱きつつ、ええいままよとスタルークの部屋に収まったのだ。そして彼女の期待通りと言って良いかはわからないが、スタルークは彼女を求めた。それに応じ、拙いながらも初めて交わったのだった。

 今のオルテンシアが身につけているのは、薄い夜着のみだった。髪は下ろされて、普段は完璧に仕上げている化粧も落としている。それはオルテンシアにとって、武装を解かれているも同然だった。あのイルシオン王室で、可愛さと愛嬌だけで生き延びた。そのためには、髪結いも化粧も可愛らしい衣装も全て必要であった。そのいずれもが無いのは、かつてのオルテンシアにとっては死も同じだった。しかし昨夜、初めて全ての武装を解いたオルテンシアを、スタルークは強く優しく抱きしめてくれた。

 昨夜のことを徐々に思い出していくと、オルテンシアの心臓はばくばくとなり始めた。とても恥ずかしく、しかし幸せな時間であった。そんなオルテンシアの心臓のことなどつゆほども知らず、スタルークは穏やかな寝息を立てている。

「……スタルーク王子」
 誰に言うでもなく、小さくひとりごつ。いつも少し自信がなさそうに顔が憂いを帯びているこの男が、こんな安らかな寝顔をしているなんて、今日まで知らなかった。そして、閨の最中のぎらついた瞳も。スタルークのことはお付き合いの中で一通り知っているつもりであったが、まだ彼の真髄には触れていなかったのだと思い知らされた。そしてきっと、それらの表情を知るのは自分ただ一人。オルテンシアはそう思い至ると、彼への愛しさが自然と溢れ出た。

 髪も化粧もしてないあたしを。
 普段よりも可愛くないあたしを。
 受け入れてくれて、ありがとう。

 そうスタルークに感謝しつつ、彼の髪に少しだけ触れた。さらさらと流れるその糸にオルテンシアは感嘆する。こんなにさらさらの髪、羨ましいわ。そう少しだけ嫉妬しつつ、毛束を取って指先で優しく擦った。

「ん……」
 不意に閉じていた瞼が開かれ、その間から紅玉が姿を現す。せっかくゆっくりと寝ていたのに起こしてしまった。オルテンシアは罪悪感に駆られる。
「あっ、ごめんなさい……起こしちゃって」
「ううん……まだ夜ですね。眠れなかったんですか?」
 少し寝ぼけ眼で気の抜けた声で問うスタルークは、オルテンシアに無体を働いたのではないかと心配しているらしい。
「いえ、さっき目を覚ましたばかりよ」
「そうですか。朝までもう少しあります。寝ないと今日に響きますよ」
 とはいえ、目が冴えてなんとなく眠る気にもなれずにいると、スタルークはこっちに来てくださいと、起き上がっているオルテンシアに腕を伸ばした。大人しくその腕に収まると、彼の匂いが鼻の奥に広がった。オルテンシアのそれとは全く違うけれど嫌ではない、むしろ好ましいものだった。
「スタルーク王子」
「どうしましたか?」
「その……あなたとこうなるなんて、少し前は思ってなかったわ」
「僕もです。オルテンシア王女のような素敵な人が、僕なんかに……」
「その後ろ向きなところ、相変わらずね」
 オルテンシアはくつくつと笑った。以前は彼の性格に面食らっていたが、オルテンシアはスタルークのそのままを受け入れることにした。それがスタルークにとっては嬉しいことだったようで、紆余曲折あり今に至る。
「こんな僕を受け入れてくれて、ありがとうございます」
「それを言うならあたしも……こんな、お化粧もしてないあたしを」
「オルテンシア王女でも、自分を卑下することがあるんですね。らしくないですよ」
 今度はスタルークの方がくつくつと笑い、オルテンシアの結っていない桃色の髪に指を通した。くすぐったくて心地いい。こんなに安心するなんて。
「僕はあなたが好きです。たとえお化粧をしてなくても、あなたはとびきり可愛いですから」
「もう、そういうのずるいわ……」
 あれだけ周りから可愛いと褒めそやされているオルテンシアでも、スタルークから真っ直ぐに褒められると、その誠意が胸に突き刺さるようでなんとも弱い。自分に自信がなく、真に周囲を尊敬しているからこそ出る彼なりの言葉は力を持っている。そのことを今回も痛感させられる。
「ずるいですか、僕は」
「ええ、すっごく」
 その少々不穏な言葉のやり取りとは裏腹に、二人は穏やかに微笑み合っていた。スタルークの手がオルテンシアの頬に触れたと思うと、その薄い唇が寄せられる。オルテンシアは抵抗せず、触れるだけの口づけを受け入れた。

「おやすみなさい、オルテンシア王女」
「ええ、おやすみなさい、スタルーク王子」
 二人は寄り添ったまま瞳を閉じる。互いの温もりが、心音が心地よく、オルテンシアはすぐに眠りの淵へと落ちていった。

〈了〉

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