一
ねえサーリャ。サーリャは、僕のこと好き?
ーーこの言葉を飲み込んだのは、一体何度目だろう。
傍には妻がいて、今自分はその肩を抱いているというのに、二人の距離が果てしなく遠いものに感じて、息苦しさを覚えた。
「……貴方、顔色が悪いわ。今日はもう休んだら……?」
重い前髪の影が切れ長の目に落ちている。ここは夕暮れ時を過ぎた天幕だから、ランプの明かりだけが頼りだ。だからサーリャの目が訴えるものは、薄暗さでよく見えなかった。果たしてサーリャは本当に顔色が分かったんだろうか、とヘンリーはつい疑った。
「そうかな〜? でもサーリャが言うなら、そうなのかも〜」
それでもヘンリーは、サーリャの言葉に素直に従うことにした。名残惜しかったが彼女の肩から手を離し、立ち上がって服の裾についた土を軽く払う。先程まで左手に感じていたぬくもりはいとも簡単に消え失せた。忘れたくない。離れていてもぬくもりを感じられる呪いがあればいいのに。
「よく休める呪いが要るかしら……」
「ううん、いいよ。ありがと〜」
何でも呪いに頼ろうとするのが妻の悪い癖だが、自分も似たようなものだから、特に何も言わなかった。
サーリャも立ち上がって、天幕の入り口まで見送りに来てくれた。
「それじゃ、おやすみ〜。サーリャもよく眠れるといいね〜」
不眠症のサーリャを気遣いつつ、ヘンリーはほんの少しだけかがんで、その小さな唇に口づけた。
「おやすみなさい…」
唇を離すやいなやうつむいたサーリャの表情はやはり見えなかった。ばさ、と天幕をめくって外に出ると、すぐさま幕が二人を分かつ。丈夫な帆布の向こうにはまだ妻がいるはずだが、はるか遠くに行ってしまったように感じられた。
自分の天幕に向かいながら、あの肩のぬくもりと、先程触れた唇の柔らかさを何度も反芻する。しかしその感触はみるみるうちに薄れていった。できることなら、またサーリャのもとに戻りたかった。
ヘンリーは足を森の方に向ける。ひとりぼっちの天幕にはまだ帰りたくなくて、森の木々と会話をしてから休むことにした。
暗い天幕に戻ったヘンリーは、その日の昼の会話を思い出していた。サーリャとは、共に物資の買い出し当番だった。
「あら、デートかしら? 仲がいいわね」
昼食後、街に買い出しに向かおうと歩きだした二人は、すれ違い様にティアモに冷やかされた。新婚だから、このようなことはしばしばあった。
「別に……たまたま当番が一緒になっただけよ」
「あはは、でも実質デートみたいなものだよね〜」
「ちょっと……! 何言ってるの……私はそんなつもりじゃ……」
言い合いになりそうな二人を見て、ティアモは破顔した。
「もう、サーリャったら相変わらずね。愛する旦那様といるんだから、ちょっとくらい楽しんできてもバチは当たらないわよ」
「あ、あい……!? そんなんじゃ……私はこいつがどうしてもって言うから結婚してあげただけ……。こいつが何でもお願いを聞くって言ったから、結婚してあげたの。便利な男よ……」
「サーリャ。もう少し素直にならないとだめよ? ヘンリー、こう見えてサーリャはあなたのこと大好きなんだから、長い目で見てあげてね」
「ち、ちが……」
サーリャは反論しかけたが、言いたいことを言ったティアモは、これ以上二人を邪魔しないようにと、軽く挨拶をして去っていったのだった。
ティアモが見えなくなってから、ヘンリーはふと疑問を口にする。
「サーリャ。僕って便利なの〜?」
「え、ええ、そうよ。便利に使わせてもらってるわ……」
確かにヘンリーはサーリャのお使いをよくこなしていたし、呪術の実験台にだってなった。そのことについては、ヘンリーは何の不満もなかった。
しかしサーリャが苦しまぎれに口にしたその言葉が、ヘンリーの記憶の引き出しを開けたのだ。
かつての自分は、両親にすら放っておかれるような子どもだった。
施設に入ってからは、いつもお仕置きされてばかりの悪い子だった。
しかし、施設を出て、ギムレー教団やペレジア軍に属するようになってからは。
ーーこのガキ、使えるな。
ーー捨て駒にしては便利だねえ。
ーーいざとなりゃ、こいつに全部被せればいい。
それは彼にとって「褒め言葉」だった。
生まれてから施設に入れられ、そしてそこを出るまで、人に必要とされたことは一度もなかった。両親の役に立ちたくて何かをしたって、何の反応も返ってこなかった。
それが施設で呪術の才を見出され、教団預かりとなってから、ヘンリーには役目が与えられたのだ。呪いの仕事を次々に請け負った。要人を殺せば褒められて、いつもよりほんの少し良い食事が与えられた。彼は、生まれて初めて人に必要とされたのだ。教団やペレジア軍での日々は、ヘンリーにとっては良い思い出だった。
しかしどうだろう。サーリャから同じ「褒め言葉」をもらったというのに、なぜかあの時ほどは嬉しくなかった。むしろ胸が締め付けられるようで、ヘンリーは混乱した。ーーサーリャが僕を必要としてくれるなら、嬉しいはずなのに。
ヘンリーの意識は暗い天幕の中に戻ってきた。先程、どうしてもできなかった質問。
サーリャには、一度も好きだと言われたことがなかった。それどころか、彼女はルフレばかり追いかけている。ルフレは女性だから、サーリャとは結婚できないが、本当はヘンリーではなくルフレと共に生きたいのかもしれない。
ティアモは、サーリャはヘンリーが好きだと言っていたが、サーリャ本人は違うと言った。つまりどちらかが、嘘や間違いを言っている。
人間は嘘をつくし約束も破る。だからヘンリーは、人よりも自然と仲良くすることの方が多かった。
あの施設に初めて来た日、帰り際にヘンリーにすがりつかれた両親は、「夕方になったら迎えに来る」と言った。それが最後の姿だった。
ヘンリーはあれが嘘だったのか、本当に来られなくなって約束を破ったのか、いまだに決めかねていた。
二
あの夜からしばらく経った頃、サーリャは金の刺繍の入った黒い布を抱えてヘンリーのもとにやって来た。
「……これ。できたわよ……」
それはヘンリーから頼まれた繕いものだった。先日の戦いで派手に破れたダークマージのマントは、少しいびつな縫い目でしっかりと繕われている。洗濯もされていて、ずっと気になっていたが放っておいた汚れが見事に落ちていた。
「わあ、ありがと〜!」
「ちょっと……あまり見ないで頂戴。こういうのは、セルジュにでも頼めば良かったのに……」
飛び上がるほど喜びつつ、縫い目をまじまじと見ようとするヘンリーを、サーリャは慌てて止めた。縫い物の達人セルジュがやれば、それはそれは綺麗な縫い目で仕上がったはずなのに……。そうサーリャは思ったが、ヘンリーは好きな子にマントを繕ってもらいたかった。
「ううん、サーリャが縫ってくれて嬉しいな〜。洗濯もしてくれたんだ〜! 助かったよ〜」
「……汚れを落とすのが大変だったわ。もっとまめに洗った方がいいわよ……」
彼のマントは一張羅だから、毎日洗うのは難しい。サーリャは洗い替えを買うよう促したこともあったが、ヘンリーは今のマントが余程気に入っているらしく、なかなか新調しようとしなかった。
「ごめんね〜、気をつけるね〜」
ヘンリーは照れくさそうに笑って、早速そのマントを羽織った。新品ではないが、洗濯したばかりでぱりっとしていて、至極気分が良かった。
「ふふっ、いい感じ〜。早速これ着て出かけたいな〜。ねえねえ、これから川の方に行かない? 景色が綺麗なんだよ〜」
「今からだと、お昼になってしまうわね……。簡単なお弁当を作ろうかしら」
「そうだね〜。一緒に作ろ〜」
二人は何を作るか考えながら、調理場に向かった。
川辺の景色は確かに素晴らしかった。二人は並んで座り、サンドイッチを頬張る。
「サーリャは優しいね〜」
「何よ急に……」
「だって僕、両親にもほったらかしにされてたんだよ。なのに、血の繋がってない僕のために、縫い物とか、洗濯とか、お弁当とか、色々してくれるんだよ〜。優しいよね〜」
「……確かに血は繋がってないけれど、私は貴方の妻だもの……」
サーリャは自分と結婚したから、施しをしてくれている。では結婚していなければ、こんなに優しくはしてくれないのだろう。そもそも結婚してくれたのは、好きだからか、それとも「便利」だからなのか。ヘンリーの脳裏にはまたあの疑問がよぎった。
ーーサーリャは、僕のこと好き?
それでもやはり声にはならなかった。
「貴方……やっぱりおかしいわ。悩みがあるなら言いなさい。呪術で何とかしてあげるわ……」
「ううん、大丈夫だから呪わなくていいよ〜」
呪いではどうにもならない類の悩みだから断ったが、やはりサーリャは優しいと思った。
サーリャの顔を伺う。ヘンリーの笑顔から感情を読み取ることはひどく難しいが、サーリャの表情も少々分かりにくい。いつもの陰気な顔、凄みを感じさせる眼差し、何かを企むような笑み……素直な笑顔などは滅多に見られない。暗い表情の数々は、女性としてはあまり褒められたものではないだろうが、それでもヘンリーはそんなサーリャが好きだった。
今、サーリャはヘンリーを心配するような言葉をかけてくれたが、その表情は平素とほぼ変わらなかった。だがヘンリーは、彼女の眼差しがわずかに揺らいでいることに気づいた。
ーーあ、サーリャは心配する時、こういう顔をするのかな〜。
ヘンリーはサーリャと接するうちに、少しずつ彼女の感情表現を理解してきていたのだ。
「ねえ、そんな顔しないで。僕は平気だよ〜」
「何よ……私は普通にしているわ……」
「ね、サーリャ。元気出して」
ふいに、ヘンリーはサーリャとの間合いを一気に詰めた。サーリャが驚く間も無く唇を重ねると、その白い頬がぼっ、と赤くなる。それはヘンリーが特別好きな表情だった。天気のいい日中だから、その様子がよく見える。サーリャをなだめるために口づけたつもりだったが、本当はこの顔が見たかっただけなのかもしれない。
真っ赤な顔をいつまでも見ていたいのに、サーリャはすぐにうつむいてしまう。キスをした後はいつもこうだ。これがサーリャにとって嬉しい表情なのかどうかは、実はまだよく分からない。
サーリャは、ルフレと共に過ごせる時にもよく赤くなる。あの、うっとりとルフレを見つめる熱い眼差しは、ルフレにだけ向けられるものだ。あの顔も可愛いのに、見ていてあまり良い気分にならないのが、ヘンリーには不思議だった。
「いきなり何するの……」
サーリャはそれだけ言って、顔を上げないままでサンドイッチをもくもくと食べ始めた。ヘンリーが何度か声をかけても、返事はない。
サーリャとはもう何度も口づけをしていたが、好きだと思って唇を触れ合わせても、想いはいつも一方通行で、サーリャの気持ちは伝わって来なかった。これでは夫婦と呼ぶにはあまりに寂しい。それでも離れたくなくて、彼もサンドイッチを食べながら、そっとサーリャに寄り添った。
三
ヘンリーは呪術書を小脇に抱えて野営地を巡った。お目当ての人物は最近忙しいらしく、日中はなかなか捕まらなかったが、ようやくその後ろ姿をとらえた。
「サーリャ」
振り向いた妻は今日も綺麗だ。彼女が口を開く前に、両手で呪術書を突き出した。
「見て〜! これ、サーリャが探してた本でしょ? たまたま古本屋で見つけたんだよ〜」
自慢げにまくし立てると、サーリャは少し目を見開いた後、目を細めてほんの少しだけ口角を上げる。
「よく見つけたわね……これ、本当に長年探していたの。ご苦労だったわ……」
かすかに微笑んでいるようにも見えるその顔が、サーリャが心から喜んでいる時の表情だということが、いつしかヘンリーには分かるようになっていた。
「ふふ、見つかって良かったね〜。これで研究もどーんと進んじゃうかも〜」
「うふふ……さあ、すぐにでも読まなくてはいけないわね……。私、天幕に戻るわ……」
表情をいつもの妖しい笑みに変えて、サーリャは足早に去ってしまったが、喜ぶサーリャを見られたヘンリーは満たされていた。好きな子が嬉しいと自分までこんなに嬉しくなるのだと、彼は結婚して初めて知った。
可能であればいつまでも喜びに浸っていたかったのだが、横槍が入った。敵襲の知らせが野営地を駆け巡り、ヘンリーも出撃することになったのだ。ただ、彼は戦うのが大好きだったから、これはこれでわくわくしていた。
出撃メンバーにはサーリャもいたが、隊列は遠く離れている。
徐々に近付いてくる屍兵に、先制攻撃を仕掛けようとルフレが指示を出した。敵はあまりに多いが、これ以上野営地に近寄らせると危険だったので、止むを得ず前衛を突撃させる。
しかし、そこで思わぬ事態が起こった。ヘンリーが駆け出して、前衛のさらに前へと飛び出したのだ。
「あはは、みんな、こっちこっち〜!」
大声を出して屍兵の注意を引くと、すぐさま攻撃がヘンリーに集中した。ーー彼は、リザイア片手に囮になろうとしている。そう悟ったルフレは、思わず叫んだ。
「ヘンリーさん、危険です! 戻って!」
しかし時すでに遅く、ヘンリーは囲まれ、戻ることはかなわなくなっていた。確かにリザイアは使い勝手の良い魔法だが、敵の力量と数を見るに、耐えられるかはぎりぎりだった。
「ほらほら、もっと本気出さないと、僕がみ〜んな殺しちゃうよ〜?」
屍兵に言葉が分かるのかは定かではないが、ヘンリーは屍兵達を挑発しながらリザイアを連発する。傷がついては治り、血が噴き出しては止まり……負傷と回復を繰り返し、闇魔法に身体を蝕まれる彼は、いつにも増して痛々しかった。
「ヘンリー!」
離れていたサーリャが事態に気づいた。走り出そうとしたサーリャを、ルフレがなんとか諌める。これ以上指示違反をされたら、助かる命も助からなくなる。ヘンリーを囲んだ屍兵を倒した上で、敵の部隊を壊滅させなければ……ルフレは必死に軍を動かした。
その努力が実り、イーリス軍は犠牲者を出さずに屍兵を倒すことができた。敵の数の割に早く殲滅できたのは、実はヘンリーの囮作戦の効果が大きかったのだが、そのような戦い方はルフレの本意ではない。軍律を保つため、ルフレはヘンリーと共に、指示違反しそうになったサーリャも呼び出した。
「ヘンリーさん! 何を考えているんですか……! あれでは、あなたがいつ死んでもおかしくはありませんでした……」
「あはは、別にいいじゃない。だって僕のおかげで敵を早く倒せたでしょ〜?」
「だめです、私は一人の犠牲者も出したくないんです。だからヘンリーさん、もう二度と、あんなことはしないでください」
「ふ〜ん、ルフレは甘いね。何があっても勝たなきゃいけないのが戦争でしょ〜? 僕、ペレジアにいた時はよく囮になってたから平気だよ〜」
ルフレと、やりとりを静観していたサーリャの表情が固まった。ペレジア軍もギムレー教団も、兵を人とも思わない組織だから、囮作戦などの誰かを捨て駒にする戦い方が常だった。元ペレジア軍のサーリャはそのことを知ってはいたが、ヘンリーがそのような役回りをしていたことまでは知らなかった。もっとも彼の場合は、たくさん戦うために自分からその仕事を買って出ていたのかもしれない。
「貴方……ここはイーリス軍よ。もうペレジアの戦い方は忘れなさい……」
「サーリャさんの言う通りです。これがイーリスのやり方なんです。軍に入ったからには、従ってもらわないと困ります」
ヘンリーは情に訴えるだけでは納得してくれなそうだったから、二人は敢えて突き放したような言い方でヘンリーを諭した。
「は〜い。じゃあ、言いつけは守ることにしま〜す」
なんとか納得してくれたヘンリーにほっとしたルフレは、サーリャにも指示違反をしないよう釘を刺した後、二人を軍師の天幕から帰した。
外に出たサーリャがぽつりと呟く。
「貴方、どうしてあんなことしたの……戦いたかったから……?」
「う〜ん、それもあるけど、早く戦いを終わらせたかったからかな〜。だってサーリャ、早く敵を倒してあの本を読まなきゃいけないでしょ〜?」
あの行動の思わぬ意図に、サーリャは瞬いた。
「そんな理由で……!? あんな真似をしてまで、急ぐ必要なんてないわ……」
「え〜、でもずっと楽しみにしてたんでしょ?」
「そうだけど……貴方が死なないことの方が大事だわ。貴方には、やってもらうことが山ほどあるもの……」
サーリャはやはりヘンリーを便利屋だと言うのだが、その目を覗き込んでみると、沈んだ色の瞳が揺れている。ヘンリーは、これがサーリャが悲しんでいる時の表情だと知っていた。自分がいなくなっても「便利な男」なんていくらでもいそうなのに、彼女がここまで悲しむことに、ヘンリーは違和感を覚えた。でも、これ以上悲しむ顔を見たくはなかった。
「そっか〜、じゃあ僕、まだ死なない方がいいんだね。気をつけるね〜」
いつものように笑い飛ばして、サーリャを天幕まで送ったが、彼女の表情は晴れないままだった。今度は何をあげたらサーリャが元気になるかな、などと考えながら、ヘンリーはあてもなく野営地を回り始めた。
四
十一の月十三の日。
それは、これまでのヘンリーにとってあまり重要な意味を持たない日だった。
誕生日。
生まれてから一度も祝われたことのなかった日。
それがイーリス軍ときたら、元敵国の自分のために、誕生日を祝う宴を開こうとしているらしい。自分よりも誕生日を楽しみにしていそうな周囲の空気は、正直ぴんと来なかった。
宴は夜に開かれる。それだけでも十分だったのだが、妻サーリャがお昼に二人でお祝いをしたいと言ってきた。やはりサーリャは優しい。両親にすら放置されていた自分に、結婚したからといって、こんなに親切にしてくれる……ヘンリーはサーリャに感謝した。
昼食後、指定された天幕に着くと、サーリャがお茶を入れてくれていた。いつもより洒落たお茶菓子は、ガイアの目をかいくぐって用意するのは大変だっただろう。
早速頂くと、普段のお茶より随分香り高くて、特別に準備されたものだと分かる。
「お祝いと言ったって、特別に何かできる訳じゃないけど……一応、贈り物は用意しておいたわよ……」
「ほんと〜? ありがと〜!」
おずおずと差し出された包みの中身が知りたくて、ヘンリーは包みに飛びついた。リボンを解こうと慌てて、かえって結び目が固く締まってしまう。その性急さにサーリャは呆れた。
その中身はマントだった。ヘンリーのものと、素材も柄もそっくり同じだ。
「えっ、これどこで買ったの〜? 僕、洗い替えを買えって言われた時にすっごく探したんだけど、同じのはどこにもなかったのに」
「これを探すのには骨が折れたわ……貴方のと同じマントは、もう作られていないらしいから。占いで、何とか一枚だけ在庫を見つけたの」
ここでサーリャがため息をついた。
「……でもそれ、残念だけど難があるわ」
「えっ、どこが〜?」
ヘンリーがマントの隅々を見ると、金糸の刺繍の一部が、ほんの少し色が違うのに気づいた。よく見たらその部分だけ、縫い目がたどたどしい。
「そこだけ、刺繍がほつれて欠けていたの。本当なら、仕立て屋に補修してもらうべきところだわ。……でもこの間、私が繕いものをしたとき貴方が喜んでいたから、もしかして、と思って……」
「サーリャが縫ったんだ?」
黒髪の下の表情がかげる。
「そうよ……。でも、やっぱり変よね。今日渡せなくなるけど、仕立て屋に持っていくことにするわ……」
「ううん、僕、このままがいい!」
その語気の強さにサーリャは驚いた。
「ふふっ、じゃあこのマントは世界で一枚なんだね。嬉しいな〜!」
彼は指先でサーリャが縫った部分を撫でると、そこをじっと見たりマントを抱きしめたりして、せわしなく喜びに浸った。
彼はそのままいつまでもマントを眺めていたが、ふとサーリャを見やると、こちらを見つめて、目を細め口角を上げてーーあの、心の底から喜んでいる時の顔をしていた。
でも今回は贈り物をした訳でも、何かをしてあげた訳でもない。むしろ自分が贈り物を貰う側なのに、何故あんなに嬉しそうなのだろう。ヘンリーは訝しんだが、しばらく考えた後、ある考えに思い至った。
ーーそっか、サーリャは僕が喜んでるから嬉しいんだ。僕はサーリャが喜んでくれたら嬉しいけど、それと同じなんだ〜!
ヘンリーはサーリャが好きだから、彼女の喜ぶ顔を見たいのだ。ではサーリャも、もしかしたらヘンリーが好きだから、今あんなに嬉しそうなのだろうか。
そう思うと、なんだか胸がいっぱいになって、うまく言葉が出てこない。
だからおもむろに立ち上がり、座るサーリャに覆いかぶさるように、ぎゅっと抱きしめた。こうやって真正面から抱きしめるのは、実は初めてのことだった。
「サーリャ、ありがとう。僕……僕、嬉しいよ〜」
「ま、まあ、そんなもので良かったかしら……」
腕の中のサーリャはさすがに固まっていたが、自分より少し小さくて、やわらかくてあったかい。右手で頭を撫でてみると、さらりと真っ直ぐな髪が指に触れた。
「あはは、やっぱりサーリャは優しいね。こんな風にしても振り払わないなんて。僕が子どもの時なんて、お父さんたちにちょっと近づいただけで追い払われてたな〜」
「……何なの貴方……私が優しさや義理だけでこうしていると思ってるの……?」
サーリャの声が、耳元で震える。そして彼女はその細い腕を、おずおずとヘンリーに回してきたのだ。思えばこれまで、サーリャはいつも受け身だった。抱き寄せてもこちらに体重を預けてはこなかったし、手を握っても握り返したりはしなかった。そんな彼女が、初めてまっとうに反応を返してきたから、ヘンリーは息を飲んだ。
「……考えたの。貴方が囮になったあの日、もし貴方が死んでいたらって。きっと……私、後悔していたわ」
途切れ途切れに言葉を紡ぐサーリャに、ヘンリーは黙って続きを待つ。
「貴方に、何一つ伝えてられていなかった……。どうしていいか分からなかったの。……でも、今言うわ。私……貴方がいないなんて、もう考えられない……」
最後の方は少し涙声だった。背中に回されたサーリャの手に、少し力がこもる。それきり何も言えなくなってしまったらしく、ただただしがみついてくるサーリャが可愛かった。抱きしめながら、「愛しい」ってこういうことなのかな、とヘンリーは思う。
「僕もね、サーリャがいないなんて考えられないな〜。ずっと一緒にいようね〜」
ヘンリーが身体を起こすと、サーリャは名残惜しそうに腕の力を緩める。少し寂しそうなその唇に、己の唇を重ねた。
「ふふっ。やっと、夫婦になれたね」
そうやって笑うと、やっぱりサーリャは真っ赤になってうつむいてしまったので、もう一度ヘンリーはサーリャを抱きかかえ、耳元でささやいた。
「ねえ、誕生日だから、もう一つお願いしてもいいかな〜? サーリャの気持ち、もっと聞かせて」
再びヘンリーの背中に回して、その肩口に紅潮した顔を埋める。しばしの沈黙の後、サーリャはゆっくりと口を開いた。
黄昏時の野営地に、二つの長い影が伸びている。
二人の出で立ちは、イーリス軍には似つかわしくない呪術師そのものだ。それでもその片割れの誕生日を祝おうというのだから、イーリス軍の懐の深さがしのばれる。
「あー、やっと来た! 遅いよー!」
飛びつく勢いで出迎えたのはマムクートの少女ノノだ。嬉しさがあまったのか、なぜか竜石を取り出したノノをサーリャがなんとか制止した。
「ノノさん、主役とは遅れて登場するものですよ。さあヘンリーさん、今日は私も気合を入れて火起こししましたから、その火で作った料理を楽しんでくださいね」
なぜか火起こしの実績の方を強調してきたフレデリクだが、彼は料理もお手の物だ。それに加えて料理上手な面々も揃っているから、きっとご馳走が食べられるだろう。
「えへへ、わたしはお料理は担当しなかったんだけど、飾り付けとかは頑張ったよ!」
リズの料理は壊滅的だとカラムに聞いたことがある。それでも皆が自分にできることでヘンリーを祝おうとしていて、ヘンリーは昼とは違った喜びに包まれていた。
「ありがと〜! それじゃ、行こうか〜」
そう言うとヘンリーは急にサーリャの手を取った。サーリャの頰は今日何度真っ赤になったか分からない。
「ちょ、ちょっと貴方、人前で何を……!?」
「いいなー! ノノも、手をつなぐー!」
ヘンリーの不意打ちに狼狽したサーリャのもう片方の手を、すぐ側にいたノノがぎゅっと握ってきて、サーリャは余計にあたふたした。
「もう、ノノったら、お邪魔したらダメだよ?」
からかうようにリズが笑った。
「えっ、ノノいけなかった?」
「そ、そんな邪魔とかじゃ……」
「あはは、もういっそみんなで手をつないで輪になっちゃったら〜?」
「ふふ、それじゃ随分歩きにくそうですね」
イーリス軍は騒がしい。この後の宴もたいそう派手なものになるだろう。皆が用意してくれた会場に向かいつつ、サーリャが自分の右手をそっと握り返しているのを感じて、ヘンリーは人知れずしあわせに浸っていた。
<了>