暮れる日が、立ち並ぶ天幕を橙色に染める。夕餉を終えた頃だが、最近いっそう日が長くなっており、行き交う人の顔は充分に分かる明るさだ。食事場所からぞろぞろと兵が出てきて、自らに用意された天幕へと帰っていく。その人の波が落ち着くと、辺りからは声がほとんどなくなり、どこか寂しさが漂った。
野営地に、夜の気配が迫っていた。
だんだんと深まっていく暗闇に紛れるように、女はいた。野営地の中心に近い位置にある小さな天幕は、軍師ルフレのもの。その傍に、女は身を潜めていた。
黒を基調とした装束と、切り揃えられた黒い髪。夜は彼女の時間だった。
そうして完璧に闇と同化していたと思われた女を、一人の男が目ざとく見つけ、声をかけた。
「何だぁ? お前、何やってんだ?」
その声にはどこか威圧感が感じられたが、それが彼の平素だった。彼女とは正反対に、赤い髪と黄色い装束といった派手ないでたちは、濃くなった闇の中でもよく分かる。
かつて暗愚王と呼ばれたその男ギャンレルは、つい先日イーリス軍に加わったばかりだった。彼は娯楽の少ない野営地で自らを持て余しており、人もまばらな野営地をぶらぶらとしていたところ、彼女と出くわしたのだった。
「何よ……貴方には関係ないでしょう……」
夜の女サーリャは身じろぎもせず吐き捨てた。切れ長の目は、不機嫌な色に染まっている。
「別に声掛けるくらいはいいだろ、ルフレを狙う暗殺者かもしれねえしよ。それともあれか? 愛しの軍師様に夜這いでも仕掛けに来たかぁ?」
「相変わらずそういう発想しかできないのね……つまらない男」
品の無い笑顔でからかう男に女は興味がないらしく、再び天幕の方を向いた。
「おいおい質問に答えろよ、なあ? でなきゃ、ルフレ暗殺の容疑者として、引っ捕えてやったっていいんだぜ?」
「貴方って、そういう屁理屈は手慣れてるわね……昔
から、そう……」
昔、というのは彼が暗愚王だった頃を指すのだろう。ペレジアの王だった彼は、不穏分子や気に入らない輩になんやかんやと難癖をつけ、容赦なく排除してきた。彼の配下だったサーリャは、それをよく知っていた。
なお現在、どういう因果か、二人はペレジアの隣国イーリスの軍で、一兵士として顔を合わせる間柄となっている。
「……まあいいわ、教えてあげる……ルフレを観察するためよ。……教えてあげたんだから、もう行きなさい」
サーリャはルフレを慕っていた。いや、慕っていたなどという生易しいものではない。毎日後を尾け、陰から見守り、ルフレに関するものなら何でも大切に保管し、ルフレのためならその魂すらも捧げ……その心酔ぶりはもはや宗教にも似ていた。サーリャはルフレに帰依していたと言えるだろう。
「まったく、よく飽きねえなあ。こんな時間に、何観察すんだ?」
「……決まってるじゃない……寝返りの回数よ」
「はあ!?」
こともなげな返答にギャンレルは仰天した。いくら惚れ込んでいると言っても、相手の寝返りの回数まで数える人間がどこにいるというのか。
「まさか朝までここにいんのかよ?」
「そうよ……ルフレのためなら徹夜なんて訳ないもの……うふふふ……」
「じゃあ何だあ? 旦那はほったらかしか? 嫁に相手されねえなんて、あいつも哀れだなあ」
サーリャは結婚していた。「あいつ」と呼ばれた夫は、やはりかつてはギャンレルの配下だったヘンリー。とはいっても、サーリャはペレジア時代は彼と面識がなく、出会ったのはイーリス軍に入ってからのことだ。
「別に構わないでしょう……貴方にとやかく言われる筋合いはないわ……」
「ったく、お前、ちゃんと妻の務めを果たしてんのか?昼間もずっとルフレを追っかけてんだからよ、夜くらいは『ご奉仕』してやれや」
ご奉仕、というところでにやついたところを見るに、また何かいかがわしいことを考えているのだろうと、サーリャは呆れる。
「うるさいわね……。そういう俗なことばかり考えてるから、そんな卑しい顔なのね……」
「あぁ? てめえは陰気な面してるくせに何言いやがる。まあいい、好きにしろや」
「ふん……分かればいいのよ……」
容姿をけなされたのが気に入らなかったのか、ギャンレルは最後の最後に少し語気を荒くしたが、サーリャは涼しい顔で、彼が去った後も天幕の内側を伺い続けた。その頃には闇はいっそう濃くなって、彼女を隠していた。
やがて夜の帳が下りて、野営地に静寂が訪れる。月明かりが天幕に優しく注がれる。今宵は満月だった。闇に包まれるサーリャを見つける者は、今度こそいないと思われたが、夜目のきく男はもう一人いた。
遠くで揺れるランプの明かりに、サーリャは目を向けた。赤い炎が徐々に近づいてくる。普段ならそれを一瞥するだけで、気にもとめないところだが、今日そうしなかったのは、ランプの主が誰なのか、気配で分かったからだった。
「サーリャ」
手元の明かりで空虚な笑顔が浮かび上がる。月のような銀色の髪を揺らし、黒いマントを翻して歩いてくる彼もまた、夜の男だった。
「……何よ」
相手は夫だというのに、サーリャはそっけなかった。しかしヘンリーも彼女のそうした態度には慣れたもので、笑顔のままランプを持っていない右手を掲げる。その手にはぼんやりと発光する、大輪の白い花が握られていた。
「見て〜、光る花だよ〜。綺麗だよね〜」
サーリャは花にさほど興味がない。そのことはヘンリーも知っているが、それでも彼は美しい花をサーリャに見せることがしばしばあった。それに、今回は別の思惑もあった。
「これ、呪術に使えるかな〜?」
「……満月花ね。満月の夜にだけ咲くの。呪いの材料にはなるけど、咲いてから二日ほどしか持たないわ……。明日、早速研究に使わないと……」
「あ、やっぱり使えるんだ〜」
「確か、呪い以外の使い道もあったけど、何だったかしら……でも、呪いの材料としては優秀よ……カデネ経典に載っている呪術だって、これを材料にしているものは多いわ……」
二人は呪術師だった。呪術の研究に没頭しているサーリャのために、ヘンリーは材料になりそうなものを見つけるとこうして持ってくるのだ。呪術の実力はヘンリーが上だが、知識はサーリャが上だった。
「そうなんだ〜。それにしてもサーリャ、ここにいたんだね。夜の散歩に行くから、さっき天幕に呼びに行ったらいなくて。だから一人で行ってきちゃった。二人でもう一周する〜?」
ヘンリーはよく夜の散歩に出ていたので、結婚してからはサーリャもよく誘われていたのだが、ルフレや研究を理由に断ることが多かった。
その日もサーリャはルフレを朝まで見守る予定だったので、にべもなく断るつもりだったのだが、先程ギャンレルが「嫁に相手されねえなんて、あいつも哀れだなあ」と言っていたのがふいに思い出され、ためらった。何よりもルフレを優先する彼女にとっては珍しいことだ。
ーー目の前の男は、確かに哀れだ。私なんかと結婚して、いいことなんてきっと一つもなかっただろう。それでもこいつは、いつも私のそばで笑っている。
「あ、ルフレを見てるんなら別に無理しなくていいよ〜?」
「……いえ、行きましょう……研究のために、もう少し満月花が必要だわ……」
そうして、ほの白く光る花を言い訳に、野営地の周囲を二人で回ることになったのだ。
「このへんにね〜、僕が最近仲良くしてるカラスの巣があるんだよ〜」
右手に持ち替えたランプを、木に向けて照らし、ヘンリーが教えた。左手は、サーリャの手をしっかりと握っている。
サーリャはその木の方をちらりとだけ見て、うつむいた。ヘンリーと繋いでいない方の手で握った満月花に視線を落とす。時折角度を変えて眺めたり、香りをかいだりと、いかにも満月花に興味津々だ、というように振る舞う。
ヘンリーの方を見られない。夜の散歩のときはいつもこうだ。繋いだ手は柔らかくて、温かくて、ほんの少し汗ばんでいて、苦しくなる。胸の中がそわそわして落ち着かない感覚が、サーリャは苦手だった。きっと夜の散歩を断るのだって、この感覚が苦手だからで、ルフレや研究もただの口実なのだろう。
イーリス軍に入るまでは、いや入ってからも、色恋沙汰に興味はなかったはずだ。しかし今、サーリャは恋をしていた。
黙りこくった妻に夫が色々と話し、時々相槌が返ってくる。それが夫婦の散歩の常であった。
野営地を少し離れ、林の小道に入る。ヘンリーは一人でこんなところまで来ていたのか。もし屍兵にでも出くわしていたら、どうしていたのだろう……サーリャの胸に、影がよぎる。
そうして散歩を続け、とうとう満月花のところに着いた。小道の端に、ほの明かりが灯ったように並んで咲く花は幻想的で、サーリャは目を奪われた。
「ね、綺麗でしょ〜? 採っちゃうのはもったいないけど、研究に要るなら仕方ないよね。何本くらい要る〜?」
いまにも大量採取に取り掛かりそうなヘンリーをなだめるべく、サーリャは何か言わなくてはならなかった。しかし口をついた言葉に、彼女自身も驚いた。
「……いらないわ。さっきの一本で、じゅうぶんよ……」
まずい。これでは散歩に来た前提が崩れてしまう。サーリャは焦ったが、自ら追い打ちをかける。
「……私は、ただ貴方といたかっただけ……」
そこで、満月花のもう一つの使い道を思い出した。自白剤だ。その花粉にも若干の効果があると書物にあった。先程香りをかいだときにでも、体内に入ってしまったのだろう。確かに、先程まではなかった、何とも言えない高揚感が感じられた。
しかし花粉を吸っただけだから、何か話そうとしなければ、考えが漏れ出ることはなさそうだ。サーリャはそれ以上何も言わないよう、口をつぐんだ。
「あ、そうなんだ〜。だったらそう言ってくれれば良かったのに〜」
いかにも嬉しそうにそう言って、ヘンリーは繋いだ手を離し、サーリャを抱き締めた。ランプを持った右手は、サーリャに火が当たらないよう明後日の方向に伸ばし、左腕でサーリャを抱えてそっと撫でる。
「僕もサーリャと一緒にいたかったから、散歩に誘ったんだよ〜」
伝わってくる鼓動と熱と、彼の匂いに、サーリャはくらくらしていたが、やがてそっと彼の腰に手を添えた。
しばらく経ってから、ヘンリーが急にサーリャから離れた。
「は〜! ごめん、右腕が限界だよ〜」
どうやらランプを持って伸ばしっぱなしだった右腕が辛かったらしい。
そうしてランプを一旦地面に置いて、ヘンリーがサーリャの両肩に手を置いた。もう一度抱き締めてくるかと思ったサーリャだったが、ヘンリーがおもむろに口を開く。
「ギャンレルがね〜」
ここで聞くと思っていなかった男の名前が出てきて、サーリャは戸惑う。
「さっきの散歩のときにたまたま会ったんだけど、『夜はサーリャにご奉仕してもらえ』って言ってたんだよね〜」
「はあ……?」
「でね〜、ご奉仕って何してもらえばいいか分かんなくて、とりあえずサーリャからキスしてくれたら嬉しいかな〜って思ったんだけど、してくれる〜?」
まさかギャンレルがヘンリーにまで口を出しているとは思わなかった。ヘンリーは夫婦の営みが分からないほどうぶではないはずだが、ギャンレルが何を指して「ご奉仕」という言葉を用いたのかまでは、ピンと来なかったのだろう。彼は「サーリャから積極的にキスしてもらうこと」を、奉仕の一つの形と捉えたようだった。
「……仕方ないわね……」
目を閉じた男の首にしがみついて、唇を捧げた。舌を差し込んで、彼のものと拙くも無我夢中で絡める。彼はこちらの髪と背中を撫でながらそれを受け入れる。ヘンリーとキスするときはいつも受け身だ。こちらから、ここまで大胆に彼の唇を求めるのは初めてで、これも花粉の効果なのだろうか……とうっすら思った。
やがて精一杯の奉仕が終わると、ヘンリーは「ありがと〜」と言って、サーリャに軽く口付けた。月と足元のランプ、それに満月花しか明かりがないので、表情はよく見えなかったが、その唇は優しかった。
その帰り道、サーリャは満月花の効果もあるので黙っていたかったが、一つだけ言うべきことがあった。
「ヘンリー、一人であんな所まで行ったら、危険だわ……」
「大丈夫だよ〜。魔道書だって持ってるし〜」
「……だめよ。危ないから、これからはなるべく貴方の散歩に付き合うことにするわ……」
「ほんと〜? 嬉しいな〜。でもサーリャが来てくれるなら、僕もサーリャが危なくないよう順路を考えないとね〜」
繋いだ手はやはり柔らかくて、温かくて、少し汗ばんでいて……でも先程よりは、馴染んでいた。この手を、失いたくなかった。
「何ですって……」
翌日、呪いの研究のため、満月花に関する書物を紐解いていたサーリャは愕然とした。
満月花には確かに自白剤の効果があった。しかしそれは、煎じたときだけだというのだ。つまり加熱工程がなければ、自白効果はない。生の花粉を吸い込むだけで、影響があるはずがないということだ。
それでは自分は、あの幻想的な光景にあてられただけだというのか。男女交際においては、景色の綺麗なところに一緒に行くのはよくあることだ。そうすると、二人の気持ちが盛り上がるらしい。くだらないと思っていたが、自分がそのくだらない奴らと同じなのかと思うとめまいがした。
「ヘンリー……また、昨日のところに行きましょう……」
珍しくサーリャから散歩に誘う。
「でも今日は満月花は咲かないんだよね〜? いいの〜?」
「だからこそ、いいの……さあ、行きましょう……」
「うん、分かった〜」
サーリャは確かめたかった。あの満月花の咲き誇る景色でなければ、平静を保てるのか。昨日のような失態を演じずに済むのか……。ミリエル程ではないが、サーリャもなかなか探究心に溢れていた。
繋いだ手は温かいし、やはりヘンリーの顔は見られない。サーリャの胸がざわめいていたのは、探求の喜びか、それとも彼との逢瀬の喜びか。あの場所に着いた時、平静でいられること、いられないこと、どちらが彼女の望む答えなのか。
月が昇り、野営地は再び静寂に包まれていた。浮き足立った夜の女は、夜の男に手を引かれ暗闇に溶けた。
<了>