長かった大戦に終止符が打たれた直後、次期国王ディミトリは、アッシュを騎士の位に叙するつもりであることと、今後ガスパール領の統治を任せるつもりであることをアッシュ自身に伝えた。
これは仲間の欲目などではなく、大戦での功績を正当に評価した結果なのだと、ディミトリは強調した。たとえ彼がそれを主張しなかったとしても、公明正大なディミトリのことだし、実際に戦中のアッシュの活躍は目覚ましかったので、身内贔屓と思う者は誰もいないだろう。
しかし騎士の叙勲も家督相続の決定も、ディミトリが正式に即位し、ある程度政治の体制を整えてからでないとできないものだ。そのためディミトリは、それには最低でも半年ほどはかかるだろうとアッシュに詫びた。
アッシュは喜んだ。
ひとつは、長年の夢であった騎士になれるということ。
ひとつは、彼が尊敬する養父ロナート卿の、為政者としての遺志を継ぐことができること。
そして最後のひとつは、彼の最愛の恋人アネットを、胸を張って妻に迎えることができるということだった。
アネットは貴族、それも小領主とはいえ領主の姪だ。アッシュは学生だった頃から彼女を好いていたのだが、平民の自分では身分が違うとすっかり諦めていた。
それから五年経ってアネットと再会した後、どうしても抑えきれずに告白し、恋仲になった。アネットはたとえ将来アッシュが騎士になれなくても、平民として一緒に頑張ると笑ってくれた。彼女の父ギルベルトも、お前にならどこにいようとアネットを任せられると、地位のないアッシュを認めてくれていた。
それでもなお、アッシュはアネットに平民暮らしの苦労をかけたくないという思いが強かった。それだから、騎士や領主としての地位や仕事を得ることで、ようやく彼女にふさわしい夫になれると思ったのだ。
そういう訳で、アッシュはアネットに「正式に騎士と領主になったら君を迎えに行く」と話したが猛反発された。そんなに待てない、早く結婚してアッシュと一緒に暮らしたいと言って聞かないのだ。
「正式に叙勲を受けるまでは、僕は平民として町で普通の仕事をすることになると思います。収入は決してよいと言えないと思いますし…」
「大丈夫だよ。あたしも町で仕事見つけて働くから。二人で働けばきっとなんとかなるでしょ?」
「そんな……。わざわざ君が、そんな苦労を買うことはありませんよ。君はドミニク領で、今まで通りの暮らしをしていれば」
「でも、アッシュはこの先ガスパールの領主になるんだよね? そしたらこれからは、あたしもアッシュの仕事を助けないといけないよね。それなら早くガスパールに住んで、領のことを少しでも知っておかないと」
「……それは……」
「……それにあたし、もうアッシュと離れるの嫌だよ。どこでどんな暮らしだっていいから、アッシュと一緒にいたい。ねえ、だから今すぐ結婚しよ?」
こうしてアッシュは可愛い恋人に押し切られ、終戦後間もなく婚儀を執り行うことになる。同級生やギルベルトを含めたガルグ=マクの仲間たち、アネットの母親や伯父、アッシュの弟たちなどが集まり、温かい祝福に満ちた式は和やかに幕を閉じた。
「ただいま」
「アッシュ、おかえり。お疲れ様」
今二人は、ガスパール領の下町の外れにある、小さな借家に暮らしている。古く質素な家だが、二人で暮らすには十分だ。
「今日は少し野菜をもらってきました。仕入れすぎたのが使い切れなかったから、持って帰っていいって」
「わあ、助かるなー。ありがとう」
町の食堂の厨房で仕事を得たアッシュは、朝から晩まで働いていた。昼食や夕食は店のまかないで済ませてしまうから、一緒に食事をとれるのが朝だけの日が多いのは少し寂しいな、とアネットは思う。
「君の方は今日、どうでした?」
「今日はほんと忙しかったよー。ただでさえお客さん多くてばたばたしてたのに、苦情言ってくる人まで出てきて大変だったよ」
そう言って笑うアネットは、町の生活用品店で接客をしていた。いろいろな人と世間話をする機会があるから、領の暮らしについての情報もよく入るだろうと考えて選んだ仕事だった。
実際、客と話をしていてドミニクとガスパールの慣習の違いを随分知ることになったし、貴族出身のアネットにとっては、庶民の生活を現場で学ぶ良い機会となった。
共働きをしていても暮らしに余裕がある訳ではないが、二人の生計を立てるには問題がなかったし、アッシュの弟たちへの仕送りもすることができた。上の方の弟たちは仕事ができる年齢になっていたが、下の方はまだ働くには幼く、いくらかの仕送りが必要だった。アネットはアッシュのきょうだいとすぐ仲良くなって、彼らをかわいがっていたから、仕送りができるのはアネットにとっても嬉しいことだった。
その日、寝る準備を済ませたアッシュは、寝台に座り込んで頭を垂れる。それを見たアネットが、心配して声を掛けた。
「アッシュ、疲れたの?」
「いえ、それは平気です。……でも、思ったんです。君にこんな生活をさせてしまって、本当に良かったのかなって……」
「えっ? いいに決まってるよ。あたしは毎日楽しいよ」
「でも、仕事も生活も大変でしょう? それに君は僕と一緒にいたいと言ってくれてましたけど、僕は働いてる時間が長くて、君との時間を充分取ることすらできていないと思いますし……」
アネットは罪悪感に苛まれるアッシュの顔を覗き込み、指先で軽く、彼の頬に触れる。
「アッシュ」
その眼差しから愛が溢れる。
「あたしは仕事、大変だけど楽しいと思ってるよ。生活だって、お肉が安く買えたとかちょっとしたことが楽しいし。それにね、毎日当たり前みたいに、アッシュと同じ家に帰って一緒に寝られるのが嬉しいの。ガルグ=マクでもお互い部屋に泊まったりはしてたけど、約束して会いに行ったりしなきゃいけなかったから……」
指先でそっと彼の頬を撫でながら、アッシュと目を交わす。
「確かにもっと一緒にいられたらもっと楽しいかもしれないけど、アッシュが留守でも、洗濯物にあなたの服があるだけでも嬉しかったりするんだよ。あぁ、あたし、ほんとにアッシュと結婚できたんだなーって」
幸せそのもの、といった様子で頬を緩めるアネットに、アッシュも思わず相好を崩した。手を伸ばして、アネットの髪にそっと触れる。
「ありがとうございます。アネットは、いい子ですね」
そんなアッシュを撫でつつ、アネットはまた笑って、こう言った。
「別に、いい子とかじゃないよ。あたしはあなたが好きなだけ」
そうした慎ましくも楽しい生活は、五節間ほどで終わりを迎える。
叙勲と家督相続が正式に決まる数節前ではあったが、国王ディミトリからガスパール領に親書が届き、アッシュを後継に指名するので準備するようにと指示されたのだ。これによりアッシュと妻アネットはガスパール城に引っ越し、領主になるためのさまざまな準備に取り組むことになった。
住む家は立派になったものの、領主として働くのも、厨房や用品店での仕事とはまた違う苦労や困難が数多くあった。アッシュとアネットは領主の道を歩み始めてから、そして正式に領主になった後も、力を合わせてひとつひとつの課題に取り組んでいった。
仕事においては、アッシュとアネットが共に町で過ごした半年にも満たぬ日々での経験や感覚が、施政に活かされたこともあったという。二人にとっては、あのごみごみとした下町や古ぼけた小さな家で過ごした毎日は、実に色鮮やかな思い出となり、糧となった。
その日も山のような公務を二人でさばいた。寝室に入ったアッシュは、アネットに語りかける。
「今日もありがとうございました。……アネット、疲れていませんか? 僕と結婚して……この生活、辛くはないですか?」
「ううん、平気だよ。アッシュったら、町にいたときも、領主になっても、結局同じような心配してるね」
アネットはあの借家の寝室での会話を思い出して、くすくす笑った。
「あたしは大丈夫だよ、アッシュがいてくれるし。あなたの方こそ、あたしで良かったの?」
「アネット。もちろんです。僕は君と結婚できて、本当に良かった」
「それは、あたしが『いい子』だから?」
「いえ、それもあるかもしれませんけど……。それよりも僕は、君が好きですから」
笑顔で語り合う夫婦の目には、慈しみが満ちている。アッシュは照れたアネットを寝台の上で抱きしめて、瞳を閉じた。
アッシュとアネットがガスパール領の統治に取り組んでから幾年もの月日が経った。彼らが領主になる前にいた下町も、あの頃より発展して、ずいぶん賑やかさを増している。
当時二人が住んでいた借家は、住民が何度か入れ替わり、今はまた別の領民が住んでいるという。
この小さな家にかつて領主夫妻が仲睦まじく暮らしていたことを、知る者は誰もいない。
〈了〉