その日のイーリス軍は、ペレジア北部を行軍中に屍兵に出くわし、死闘を繰り広げた。結果的には勝てたが、行軍するには遅い時間になり、急遽野営することになった。
ちょうど武器や薬などの物資が少なくなっていたときに手強い相手とやり合ったため、軍は思いの外損害を受けた。態勢の立て直しが必要と踏んだルフレは、負傷者の回復と物資の補充を終えるまで、そこに留まることに決めた。
「ねえねえ、一緒に町に行こうよ〜」
妻の天幕を訪れたヘンリーが誘う。
「どうしたの……貴方、買い出し担当ではないでしょう」
その妻、サーリャは呪いの研究を中断させられ、少し不機嫌だ。
「そこの町はねえ、僕がずっと行ってみたかったところなんだよ〜。僕がいた施設、この辺にあるんだ」
サーリャの顔色が変わった。
時は、ヘンリーの幼少期にまで遡る。ペレジアはその国土のほとんどが砂漠で、ところどころオアシスや荒野があるような土地だった。しかし、ペレジア北部には大きな湖があり、その周辺に、わずかに森林地帯があった。ヘンリーはその地域に生まれた。
両親から愛情を受けられず、養育を放棄され続けたヘンリーは、最後には遠いところにある施設に入れられた。
その施設は、最寄りの町から随分離れていた。施設の子ども達が脱走しても町で保護されないように、子どもの足では町にたどり着けないほどの距離が必要だったのだ。
子ども達は最寄りの町の存在は知っていたが、もちろん連れて行ってもらえることはなかった。だから子ども達にとっては、その町はいつかは行ってみたい憧れの場所だった。
そして今イーリス軍は、ちょうどその町の近くに野営しているのであった。
「……そうだったの……」
ヘンリーからその町への憧れを聞かされたサーリャは、神妙な面持ちだ。
「うん。せっかくここまで来たんだから、一度行ってみたいなって思ったんだ〜。サーリャも一緒に行かない〜?」
「そう……なら、ついていくわ」
二つ返事で了承した。子ども時代に叶えられなかったことは、できるだけ叶えてあげたかった。
その町は予想よりこじんまりとしていたが、市場はそれなりだった。これなら、物資の補充は問題ないだろう。
「あはは、すっごく大きい町かな〜って思ってたけど、実際来てみたらそこまででもないね〜」
それでもヘンリーは、長年の夢が叶って嬉しそうだ。賑わう市場を二人で歩いて、いろいろなものを見た。
「子どもの頃にここに来られてたら、もっと楽しかっただろうな〜」
もうどうにもならないことであるが、ヘンリーはつい口にした。
「そうね……子どもの目で見た方が、新鮮だったでしょうね」
普通なら「今、町に来られて楽しいからいいじゃないか」などと言って慰めたくなるところである。しかしサーリャはそうしなかった。彼女は彼の境遇について、必要以上に同情しないことにしていた。
「そうだよね〜。まあ、今更どうこう言ってもしょうがないか〜」
ヘンリーはあっけらかんとしている。
二人は市場の中心に差し掛かる。大勢の人が行き交う中、ちょうど目の前を通りかかった中年の女性が、こちらの方をちらりと見た。そして、何事もなかったようにすたすたと歩いて、人混みの中に消えていった。
サーリャはそれを気にもとめずに歩いていこうとしたが、夫がついてこない。彼は、その場に立ち尽くしていた。
「何やってるのよ……行くわよ」
呆然とするヘンリーを促す。
「ねえサーリャ。今、女の人がこっちを見たの、気づいた?」
「ああ、いたわね。それが何……?」
「あの人ね、多分僕のお母さんだよ」
この町は、ヘンリーが生まれた町からは相当に遠い。しかし同じペレジア北部ではあるし、別離から何年も経っているのだから、何らかの理由で引っ越しをしていたって不思議ではない。
そのときのヘンリーの笑顔からは、細かい感情は読み取れなくて、かえってそれが恐ろしかった。
「そうなの……こんなところで、会うなんてね……」
「ほんとだよ〜。でも、元気そうで良かった」
幼少期にさんざんひどい仕打ちをしてきた母親であるが、ヘンリーは彼女を気遣い笑っていて、サーリャは戸惑った。
二人はそれからも町を回ったが、ヘンリーがどことなく元気がないように思われたので、適当なところで切り上げて帰ることにした。
その夜、横になったものの不眠症で寝付けないサーリャのもとに、寝間着姿のヘンリーが現れた。
「何よ……」
口ではそう言ったものの、彼がここに来た理由が、昼間の出来事にあることは明白だった。
ヘンリーは何も言わず、毛布を被って横向きに寝ているサーリャの後ろに潜り込んだ。こんな風に一つの毛布で寝るのは初めてのことだったので、サーリャはほんの少し身体を強張らせる。
彼は片腕をサーリャのお腹のあたりに回してそっと抱き、肩口に顔を埋めた。言葉を交わすこともなく、二人は互いの体温を感じていた。
このまま永遠に静寂が続くかと思われたが、ヘンリーがついに口を開いた。
「きっと、お母さんも僕に気づいたと思うんだ」
サーリャは無言だ。
「でも、何も見なかったみたいに、行っちゃった」
いつもの抑揚のない声で言う。背中のヘンリーは今一体どんな顔をしているだろう。
「……辛いなら、呪いで昔の記憶を消すわ。記憶の操作はできないけど、削り取るくらいはできる……」
サーリャも不器用だから、呪い以外で彼の苦悩を解決する術を知らなかった。
「ううん、いいよ。お母さんのこと好きだから、忘れたくないんだ〜」
苦しい思い出だろうに、ヘンリーは忘れたくないと言う。どんなにぞんざいに扱われたって、彼は両親を嫌いになれなかったのだ。
「そう……」
サーリャは自分を抱くヘンリーの腕にそっと触れた。首元に彼の吐息を感じる。何もできない自分に胸が締め付けられたが、ただただ彼の側で、されるがままでいた。
それから、また静寂が訪れた。それを破ったのは、いつしか耳元で聞こえ始めた寝息だった。それを確認して、サーリャも目を閉じた。
二人は初めて共に朝を迎えた。
いつの間にか寝返りをうち、毛布から思い切りはみ出して寝ていたヘンリーを見て、サーリャは苦笑する。彼の寝間着は、身長が伸びたせいで少し丈が短く、上衣が少しめくれてお腹が出ている。まだ彼が起きるには早い時間だ。露わになった白いお腹に、毛布をかけた。
サーリャは少し外を歩こうかと思ったが、やめた。目が覚めたときサーリャがいなければ、彼は不安がるだろう。だから天幕の隅で呪術書を読み始めたのだが、今朝くらいは彼の側にいようと思い直し、彼の横に寝転んだ。
毛布を横に使い、二人のお腹が隠れるようにして寝る。サーリャはしばらく彼の寝顔を見ていたが、ついうとうとと、眠りに落ちていった。
「サーリャ、おはよう〜」
サーリャが次に認識したのは、ヘンリーが自分を覗き込む顔だった。二度寝のせいで寝覚めが悪い彼女は、つい顔をしかめる。
「ふふっ、サーリャ、すっごく眠そうだよ。お寝坊さんだね〜」
「私は、一度起きたのよ……貴方と一緒にしないで……」
機嫌を損ねているサーリャとは正反対に、ヘンリーはうきうきとした様子だ。
「じゃあ、僕のために添い寝してくれたの〜? 嬉しいな〜」
「……まあ、そんなところよ。だからこんなに眠いのは、貴方のせいなの……」
「そっか〜。じゃあ二人でもう少し寝る〜?」
「貴方、これ以上寝る気なの……」
サーリャが呆れたちょうどその時、起床の号令がかかった。二度寝の誘惑を断ち切られたヘンリーは少し気を落とす。
「ヘンリー。早く天幕に戻りなさい……。身支度があるでしょう」
「そうだね〜。もっとサーリャと一緒にいたいけど、残念だな〜」
サーリャはヘンリーを見送った。いつもの調子に戻った彼に安堵しつつ、自らも身支度を始めた。
その日はようやく行軍の用意が整ったので、天幕を解体して出発の準備をした。
「僕、あの町に行けて良かったよ」
複雑な思いをしただろうが、ヘンリーはそう言って笑った。
「そう……。長年行きたかったところみたいだし、良かったわね」
「うん。お母さんにも会えたしね〜」
サーリャが敢えて触れなかったところに、ヘンリーは自ら触れた。その強さに、サーリャは目を見張る。
「……そう。元気で良かったわね……」
サーリャは本心では、幼いヘンリーを苦しめたあの女を思い切り呪いたいくらいだったのだが、何よりヘンリーがそれを望まないのは分かっていたので、建前を言っておいた。
一呼吸おいた後、サーリャは再び口を開く。
「ヘンリー。何かあったら、いつでも来なさい……」
「うん。ありがと〜。サーリャもいつでも、僕のところにおいで〜」
幼少期こそ家族の愛を得られなかったヘンリーだが、今、二人は夫婦として支え合おうとしていた。
出発準備が終わり、隊列を作る。ヘンリーはサーリャの隣にいた。今日は、とことん彼女の側にいるつもりらしい。
やがて、出発の号令がかかった。ヘンリーは、一度だけ町の方角を振り返った。サーリャはその様子をそっと見守る。
隊列がぞろぞろと動き出す。二人は前を見据え、歩き出した。
<了>