「アッシュ……。あたしたち、別れよう」
「えっ!?」
アネットがぽろぽろと涙を流しながら放った青天の霹靂に、アッシュは錬成したハンマー+で頭を殴られたような衝撃を受けた。
◇◇◇
遡ること二節前。
アネットはアッシュと料理をしているときに、いつにも増して酷い大爆発を起こし、ぼや騒ぎにまで発展した。
厨房の床は使用には支障ないがこんがりと焦げ目が付き、そこらじゅうに食材の成れの果てが飛び散る惨状。アッシュもアネットも幸い火傷や怪我こそしなかったものの全身汚れ、何から片付けてよいやらわからぬ状況にあった。もちろん周りも巻き込んでの大片付けを余儀なくされたし、果てには施設管理者に二人揃って始末書を提出する羽目になった。
それからわずか二日後。アネットは学生寮の階段の一番上から一番下まで派手に転落する。医務室のマヌエラの魔法と手当により大事には至らなかったが、転落したアネットを医務室まで運んだのは、彼女の悲鳴を聞いて駆けつけたアッシュだった。
さらに三日後。アッシュとのお茶会で紅茶をテーブルにぶちまけ、彼の服に大きな染みを作る。
その翌日、街にいくとき珍しく馬に乗ったら落馬し、やはりガルグ=マクの医務室までアッシュのお世話になる。
また二日後、アッシュの釣りを隣で見守っているときに転倒した勢いで、二人揃って釣り池に落下……。
もしかして何かの呪術にでも掛けられているのではないか、というほど、アネットは何度もドジを繰り返し、ことごとくアッシュを巻き添えにした。
ああ、アッシュにたくさん迷惑をかけちゃった。これ以上迷惑にならないように、しっかりしないと……。
そう思うと、緊張からか不思議とまた失敗を繰り返してしまい、それから一節ほどは小さいものから大きなものまで、アッシュに多大な負担をかけることになってしまった。
その中には戦場での命に関わるような失態まであり、彼の活躍と先生の指示で何とか切り抜けたものの、下手したら二人ともの命が危なかった。
――いつしかアネットは、アッシュに近づくことが怖くなっていた。
それだから、さらに直近の一節は、アネットがアッシュと会うことを徹底的に避けていたのだ。
◇◇◇
そして場面は冒頭へと戻る。アッシュが自分を避ける恋人を捕まえてその部屋に押し掛け、話し合いに入ったときの一幕だった。
「アネット、どうしてですか!? その、僕……アネットを傷つけるようなことをしてしまったんでしょうか」
「ううん、アッシュは悪くないよ! 全然、悪くないんだよ。……悪いのはあたしの方。最近、アッシュに迷惑かけっぱなしだし……だからあたしがいない方がいいんだよ」
「そんな、アネットはいつも真面目で一生懸命やってるじゃないですか。何も悪いことはありませんよ。アネットがそんなに自分を責めるなんて、珍しいですね……」
二人の会話は、なかなか噛み合わない。
「……このままじゃ、アッシュが死んじゃう」
「え?」
「あたしが近くにいたら、あたしのせいで、アッシュまで危なくなる。覚えてるよね? こないだの戦いで、アッシュがあたしをかばって、アッシュまで怪我しちゃったこと……。……だから、このままじゃ」
アネットはそれきり何も言えなくなって、しゃくり上げるように泣き始めた。
「アネット……それは戦場ではお互い様じゃないですか。僕だってへまをすることもありますよ。それに僕たちは仲間なんですから、仮に君とお付き合いしていなくても、僕はそうしてました。だから、気にやまないでください……」
アッシュがアネットの頭を撫でようと伸ばした手を、アネットは咄嗟に跳ね除ける。
「やめて。なんでわかってくれないの、わかってよ! アッシュなんて嫌い!」
アッシュの頭に二度目のハンマー+が振り下ろされる。――それは、アネットがアッシュの恋人になってから、初めて吐いた嘘だった。
◇◇◇
アッシュが話し合いの後、ふらふらとアネットの部屋を出てからしばらくが経つ。
彼は「別れよう」というアネットの提案に肯定こそ示さなかったが、呆然自失で帰ってしまったので、明確に否定できている訳でもない。なにせアネット本人に「嫌い」と言われているのだ。それを自分の我がままだけで「別れたくない」と主張するのも、はばかられてしまった。
アッシュは優しい。辛いことがあっても、自己主張せずに抱え込んでしまいがちだった。
ドミニク領主の補佐として施政に関わっていた経験からか、アネットは根回しというものをよく知っていた。
まずは先生に、戦場では極力アッシュと近くで行動させないように依頼する。もちろんグループ課題や食堂での食事などについても同様だ。王国軍の頭首と言えるディミトリにも、同じように依頼した。
もちろん先生もディミトリも、二人が恋仲であることは知っていたので、これは何かあるのではないかと大いに心配したのだが、「今アッシュと上手くいかないので、どうしても冷却期間が欲しい」などと適当に言いくるめた。あながち嘘でもない。
それからアッシュとアネットは、正式に恋人関係を解消した訳ではないものの、ほとんど接点を持たないまま数週間を過ごした。そんな二人の様子を見て、動き出そうという者たちがいた。
◇◇◇
枢機卿の部屋に、アッシュとアネットを除いた青獅子の学級の元生徒と、その元担任であるベレスが集結した。
数週間アッシュたちの様子を観察して、改善の傾向が見られないと見るや、まず動いたのはベレスだった。ディミトリとそれとなく情報交換し、お互いアネットから同様の依頼をされていたことを知る。これはどうにかした方がよいのではと思った二人と、ディミトリを支えるドゥドゥーは、状況打破を図ることにした。
一方メルセデスは何度もアネットの相談に乗っていたが、アネットの「アッシュと別れる」という意向があまりにも頑なで困り果てていた。また一方でシルヴァンは、学生時代からアッシュの恋愛を茶化しつつも兄貴分として応援しており、アッシュたちの異変に気づいて気にかけていた。
そして彼らの話し合いに敢えなく巻き込まれたフェリクスとイングリット――という具合だ。
「全く。なぜ俺が、あいつらの痴情のもつれに付き合わねばならんのだ」
おそらくこの中では一番乗り気でないフェリクスがそうこぼす。
「まあそう言わないで。フェリクスにも関係ない話じゃないよ。あの二人が一緒に動けないことで、戦場での作戦にも影響しているからね」
ベレスがフェリクスをなだめる。ベレスは元々アッシュとアネットに連携をさせる機会が多かったので、アネットの意向が作戦に影響しているのは事実だった。
チッ、と舌打ちをしつつ姿勢を傾けたフェリクスをよそに、話し合いが始まる。
「先生。確かこの間の盗賊討伐で、アッシュたちを久しぶりに組ませたと聞いたが」
「うん、もちろんアネットを説得した上でね。でもやっぱり何かわだかまりがあるのか、いつもの息のあった連携には及ばなかったよ」
ディミトリの問いに、ベレスが答える。アッシュたちの関係悪化は、戦力にも響いているようだ。
今度はベレスから、メルセデスに水を向ける。
「メルセデス。アネットの様子はどう?」
「そうね、アンったら、本当はアッシュと別れたくないはずなのに、絶対別れるって言って聞かないのよ〜。私もアンを説得しようと頑張っているのだけど……」
「別れたい理由は何て言ってる?」
「ほら、アンって、ちょっと抜けたところがあるでしょう? 自分の失敗で、アッシュに迷惑をかけたり、危険な目に遭わせたりするのが嫌らしいの。本当はアッシュのこと大好きなのに、彼のために身を引こう、なんて思ってるみたいなのよね〜……」
メルセデスは大きなため息をついた。
「シルヴァン。アッシュの様子は?」
「そうですね、先生……何つーか、憔悴しきってます。別れたくないならちゃんとアネットにそう言えばいいのに、アネットの意思を尊重すべきじゃないかって思って、何も言えないみたいです」
「何というか、二人とも優しいのが、かえってすれ違いの原因になっているみたいですね……」
イングリットが現状を簡潔にまとめる。
「なるほど、状況は大体わかったよ。さて、どうしよう……」
「殿下。殿下は、どうするおつもりです」
ベレスが思案している間に、ドゥドゥーはもう一人の頭首、ディミトリに意見を仰いだ。
「ああ、俺もいろいろと考えていたんだが……もういっそ二人を一緒に部屋に閉じ込めて、仲直りするまで出さないというのはどうだ?」
「……あのー、殿下、それはさすがにどうかと思いますよ……」
ディミトリが提案したあまりの強硬策に、シルヴァンは頭を抱えた。
「そうね、それにアッシュなら、きっと鍵を開けて出てきちゃうわよ〜」
メルセデスも止めるが、その意見は若干ずれている。
「俺は賛成だ。そうでもしないと、あいつらは話し合いの機会すら持たんだろう。扉を開けられるのが心配なら、入り口を何か大きくて重いものでふさいでおけばいい」
「なら、俺が修道院の瓦礫を運んで積み上げておこうか」
「ええっ、フェリクスも、殿下も……。あまり無理強いをするのは、かえって良くない気がします」
フェリクスとディミトリが暴走しそうなのを、イングリットが抑えようとする。
「でも、話し合いの機会を与えるというのは重要なことだね。もっと自然に話し合えるようにするには、どうしたらいいかな」
ベレスはもう少し穏やかな方法に軌道修正しようとした。そして、出た結論は――――。
◇◇◇
「うぅ〜……気まずいなぁ……」
アネットは厨房でため息をついた。「そろそろ冷却期間は充分取っただろう」とベレスに言われてしまったアネットは、なぜかその流れでアッシュと二人でお菓子作りをすることを命じられたのだ。
もちろん厨房は人払いがされており、メルセデスなどお菓子作りの得意そうな者には他の用事が命じられていて、協力を仰ぐことはできない。ベレスもまた、根回しの鬼だった。
「嫌い」だなんて言ってしまって、彼は傷ついただろう。それが何よりも辛かった。
でもその方がいいのかもしれない。それで向こうにも嫌われてしまえば、別れるという結論で話は正式にまとまるだろう。せっかくこうして会うのだから、今日ははっきりさせる良い機会かもしれない。
――――胸が痛い。
少しでも手早くお菓子作りを終わらせるため、予定の時刻より随分早く厨房に入ったアネットが、材料の準備を始めようとしたそのとき。
厨房の扉が開き、アッシュが現れた。
「あ、アッシュ!? まだ予定の時刻になってないよ?」
「アネット、お疲れ様です。……なんとなく、君はもう来ていると思ったので」
読まれている。アッシュはいつも、アネットのことは大抵わかってくれていた。それはアネットがわかりやすい性格だというのも、アッシュが他者の気持ちを慮る性格だというのもあったと思うが、アネットを大切に思い仲を深めてきたからこそ、なせる業ということなのだろう。
「そ、そっか。じゃあせっかく揃ったことだし、早速作業始めよう?」
「はい。頑張りましょう」
そうしてお菓子作りは始まった。材料を量り、混ぜ合わせて生地を作る。
作業の要所要所で声を掛け合い、制作は順調に進んでいく。最初はぎこちない二人だったが、作業を重ねるうちに、少しずつだが緊張は取れていった。
最低限の言葉しか交わさなかったが、本来二人は息が合っている。あっと言う間に、生地を成型してオーブンで焼く工程に入った。
このままお菓子作りをさくっと終わらせつつ、最後のあたりで別れの了承をもらえばいいか、とアネットが考えていたときだった。
「あの、アネット。ごめんなさい。やっぱり、僕のこと嫌いですか?」
アッシュが切り込んだ。実はこれもベレスの根回しだ。「最近避けられててまともに話せていないなら、この機会に必ずきちんと話をしろ、自分の気持ちを正直に言え」と、シルヴァンから彼に吹き込ませた。
「え、ええっ……その、それは……」
アネットはたじろいだ。あの時は勢いで「嫌い」などと言ってしまったが、本来アネットは嘘をつくのが苦手だ。それに、今またそう言ってしまえば、彼は悲しい顔をするだろう。それで、どうしても「嫌い」という言葉が出てこなかったのだ。
「……僕、ずっと考えてました。僕はアネットのこと好きですし……正直に言うと、別れたくありません。でもアネットの方が僕を嫌いなら、それは僕の我がままですから……」
「…………」
これはアッシュに別れを了承させる好機だ。そう分かっているのに、やはり「嫌い」という言葉が出てこない。
「アネット。……僕は、君と話ができなくなってから、きちんと会えなくなってから、毎日辛かったです。……もしアネットが、僕のことをまだ嫌いとまで言えないなら……もう一度、やり直せませんか?」
「アッシュ……。でも、あたし……」
――ぼすん!
ちょうどその時だった。ものすごい音とともにオーブンがガタガタと揺れ、その扉が勢い良く開き、黒煙が一気に噴き出した。こんなときに、オーブンが爆発したのだ。
「わ、わわーーーっ!!」
「だ、大丈夫ですか!? と、とにかく火を消して……」
二人はあわてて対応する。今度はぼや騒ぎになる前に、オーブンの様子は落ち着いた。
「はぁ…………」
アネットは深い深いため息をついた。
「アネット、大丈夫ですか。でも、怪我がなくて良かったです」
「あぁ……やっぱり。やっぱりあたし、駄目なんだ……」
そう力なく呟くと、アネットは下を向いて静かに泣き出した。
「アネット……君は駄目なんかじゃないです」
「だってまた、アッシュに迷惑かけちゃった」
「そんなことないですよ。確かに僕は、君を助けたことは何度もありますけど、迷惑だって思ったことはないです」
「でも、何度もアッシュを酷い目に遭わせちゃったよ。こないだも釣り池に落としちゃったりとか……」
「あはは、あれは大変だったけど、二人でずぶぬれになって面白かったです」
「そういうとこだよ!」
急にアネットが大声を出したので、アッシュはびくりとした。
「アッシュは優しいよ。……あたしだって、嫌いになんてなれる訳ないよ。今でも好きだよ! でもさ、あたしのドジで、アッシュにたくさん負担をかけてる」
ところどころ言葉に詰まりながらも、アネットは少しずつ、自分の気持ちを表し始める。
「なのに、優しいから平気だなんて言ってさ……あたし、心配だよ。アッシュが無理してるんじゃないかって……わかってよ」
アネットは、うぅ……と呻いて、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「あたしがいるせいで、アッシュが大変になるなら、あたしは……」
「もうやめてください。お互い好きなのに、どうして別れないといけないんですか?」
アッシュがいつになく強い口調でそう言ったので、アネットの涙が一瞬止まる。
「僕は、君に池に突き落とされるより、君がそばにいないことの方が辛いです。だから……アネットの気持ちを、充分わかってあげられなくて、すみません。でも僕のこういう気持ちも、アネットにはわかってもらいたいです……」
「……アッシュ……」
二人は久しぶりに、真正面から向き合った。
「君と一緒なら、多少不慮の出来事があっても楽しいんです。僕が、君が何か起こしても平気だって言うのは、優しさとかじゃありません。君が好きだから、無理だなんて思ってないんです」
「……でも」
「じゃあ、もし僕が誤ってアネットを釣り池に突き落としたとしたら、君は僕を嫌になりますか?」
「なる訳ないじゃない! そんなことで、気持ちなんて変わんないよ」
「僕も同じです」
「……あ…………」
アネットは固まった。アッシュはそんな彼女に一歩近づく。
「もし僕が迷惑をかけても、君も気持ちが変わらないと言ってくれて嬉しいです。……もう一度、言います。僕とやり直してくれませんか?」
「……アッシュ、ごめん。あたし、別れたいなんて言って、アッシュを気遣ってたつもりだった。でも結局自分の気持ちばっかりで、アッシュの気持ち、わかってあげられてなかったね……」
アネットは、手巾で顔を拭いながら詫びる。
「でも、アッシュがそう望むなら、やり直したい……」
「僕が望むから、じゃなくて、君自身がやり直したいかで決めてください」
アッシュは少し突き放したことを言う。でもそれも、アネットに無理をさせないための優しさだった。
「そっか……ごめん、そうだよね。あたし、アッシュが好きだよ。……だから、また今までみたいにお付き合いして! お願い!」
「アネット……。こちらこそ、よろしくお願いします!」
そうして厨房には、幸せそうに抱き合う一組の男女と、無残にも黒焦げになった焼き菓子が残された。
「ありがとう。きれいに焼けたね」
あの後、アッシュとアネットは改めてお菓子を作り直した。ベレスは揃ってお菓子を届けにきた二人に礼を言う。
「時間がかかっちゃってすみませんでした。あたし、またオーブンを爆発させちゃって……」
「いいんだよ。二人が仲直りできたなら、それが一番」
「あー……やっぱり先生、そういう目的で、あたしたちにお菓子を作らせたんですね。はぁ、恥ずかしいなあ……」
アネットはつい赤くなる。
「そうそう。二人の仲直り大作戦には、学級のみんなも関わってくれてるから、この焼き菓子はみんなにも配るといいよ」
「へっ!?」
「そうなんですか!? みんなが、僕たちのために……」
アッシュも真っ赤になる。ベレスは揃って赤面する二人に吹き出した。
「大丈夫。みんな気にしてないから。二人が仲直りできたと知ったら、きっと喜ぶと思うよ。でもお礼は言っておいてね」
「は、はい!」
二人は恥ずかしそうに、お菓子を持ってガルグ=マク中を回り始めた。
お菓子をもらい、二人の関係修復が叶ったことを知った元生徒たちは喜んだ。甘いものが苦手かつ痴話喧嘩に巻き込まれたことが不満なフェリクスも、ぶつくさ言いながらも、これからは何があっても二人でよく話し合うことだ、と叱咤激励してくれた。
いつも仲睦まじいアッシュとアネットが破局の危機を迎えたのは、これが最初で最後のことだった。
二人は折に触れ、この思い出の焼き菓子を一緒に作り……たとえそのときにオーブンが爆発したとしても、顔を見合わせ笑いあったという。
〈了〉