油断していた。
最近、ガルグ=マクの周辺に賊が出没しているという情報は、アネットも知っていた。
だから仲間たちは、町へ行くときなどもなるべく複数人で行くよう心がけていたのだが、その日アネットは個人的な買い物のために町へ行きたかったので、忙しそうな皆に声を掛けるのをためらったのだ。
ガルグ=マクから町までは、そう離れていない。それが、アネットの危機意識を緩ませた。
町でお目当てのものを買うついでに、いろいろな店を見て回る。たまたま覗いた店で、アネットは素敵な装飾品を見つける。お洒落好きなアネットは、その今まで見たことのない意匠に目を奪われた。
――アッシュ、これを着けたあたしを見たらどう思うかな。
アネットは、彼女が一方的に想いを寄せている男性のことを思い出す。
青獅子の学級の学友だった彼のことは、学生時代も憎からず思っていたが、五年間でさらに見違えるほど素敵な青年に成長していた。それでも彼は、五年前と変わらぬ優しく素朴な性格のままで、アネットは彼に恋をした。
アネットは、その装飾品を買った。
小さな包みに入った恋心を、アネットはそっと抱きしめる。
そして、軽い足取りで町を後にした。
彼女にとっての不運はここからだった。
ガルグ=マクに向かう道の途中、いくつかの人影がこちらに近づいてくるのが見えた。胸騒ぎがした。距離が詰まるにつれ、彼らが荒くれ者であることを知る。賊だ。アネットの身に緊張が走った。
彼らが自分を狙っていませんように、というアネットの願いも虚しく、その人の群れはアネットの方に真っ直ぐ向かっている。アネットは走り出した。
と、賊の方も走り出して、一気に距離を詰めてくる。相手は男性の足だから、あっという間に追いつかれてしまった。
「よぉ姉ちゃん。俺たちがどういう者かはわかるよな。有り金全部出しな」
幸か不幸か、アネットはその日少額のお金しか持っていなかった。先程買った装飾品も、さほど高価ではなく、金目のものとは言えなかった。
アネットは町でごろつきに絡まれても、戦いを仕掛けようとするほど勇猛果敢だが、この人数を一人で相手するのは困難だと判断し、持っていたお金を全て渡す。
「……すみませんがこれ以上はありません。帰ってもらえますか」
アネットは毅然とした態度で対応した。へらへらしていた賊の顔色が変わる。
「はっ、しけてやがんなぁ。……じゃ、せめて楽しませてもらうか」
賊の中の、体格の良い男がアネットの手首を掴んだ。アネットは振り払おうとしたが、いくら日頃鍛錬を積んでいると言っても、男の力にかなうはずもない。
「離してください!」
「うるっせぇな。大人しくしとけば、悪いようにはしねえからよ」
男たちは、小柄なアネットをゆうゆうと担ぎ上げた。そしてそのまま、近くの手頃な岩場の陰に連れ込んだのだ。
地面に放り出されたアネットを、値踏みするような目で男たちが囲む。これから何をされるのかわからないほど、アネットは子どもではなかった。にたり、と口角を上げる賊たちを見て、アネットに悪寒が走る。
アネットはこれまで、男女の関係というものを持ったことはなかった。
嫌だ。こんなところで、こんな者たちの手で貞操を奪われるなんて――。
へたり込んだまま後ずさりするアネットの手に、先程の小さな包みが触れる。先程、アッシュのことを想いながら買ったものだ。しかしその前で、アネットは男どもに好き放題に汚されようとしていた。あまりに非情な現実に、アネットの大きな瞳に涙が浮かぶ。その彼女の太腿に触れようと、賊の手が伸びてきた。
ああ、アッシュ。あたしもう駄目みたい。あなたのこと好きだったけど、もうあなたに顔向けなんてできないな。
アネットの瞳から、とうとうぽろりと、一粒のしずくが零れた。
その時だった。
ぶつ、と音がして、目の前の賊の頭を一本の矢が撃ち抜いた。賊たちがきょろきょろと周りを見回して、にわかにざわめき始める。その間にも一人、また一人と、矢で頭が撃ち抜かれていく。
アネットも周囲を確認すると、一人のボウナイトが、矢を次々と射ながら全速力でこちらに向かってきているのに気づいた。彼の銀色の髪が、太陽に照らされてきらめく。
アッシュだ。
普段温厚で、声を荒げることもない彼の優しい顔立ちの面影はない。さしずめ、怒り狂った獣といったその顔にアネットは驚いた。彼のそんな表情を見たことは、これまで一度もなかった。
やがて混乱する賊の頭が全て撃ち抜かれると、アネットは積み重なった屍に囲まれた。
「大丈夫ですか!?」
「アッシュ!」
馬でアネットに駆け寄ったアッシュが、馬上から降りてアネットに近づく。先程の鬼気迫った表情は消え失せ、いつもの優しい顔立ちの彼が、彼女に心配のまなざしを向けていた。
「うん、大丈夫。まだ何もされてなかったから……」
「良かった」
アッシュは安堵の息を吐き、その頬を緩めた。
「アッシュ、どうしてここに?」
「アネットが一人で町に行ったって聞いて、何だか嫌な予感がしたんです。最近、賊が出没しているとは聞いていましたから。それで帰りが遅かったから、気になって……」
「……アッシュ……うう……っ」
緊張の糸が切れたアネットは泣き出した。その彼女の頭を、アッシュはそっと撫でる。
「一人で出かけると危ないですよ。賊だって、今のが全員とも限らないですし、まだ油断はできません。……これから町に行きたいときは、僕に声をかけてください」
アッシュの温かい言葉に、アネットは火がついたように泣きじゃくる。アッシュはアネットが落ち着くまで、彼女を優しく撫で続けた。
「アッシュ、待たせてごめん!」
それから幾らかの日が経った後、また町に行く用事ができたアネットは、言われた通りにアッシュを誘ったのだ。男女が二人で町に行くなんて、まるで恋人同士みたい。そう意識してしまった彼女は、精一杯のお洒落をした。
「いいんですよ。さあ、行きましょう」
アッシュは笑ってそう言った。二人は町に向かい歩き出す。
「アネット。それ、似合いますね」
アッシュが先日買った装飾品を褒めてくれたから、アネットの胸がどきんと跳ねた。アッシュはよく気が付く優しい男性だ。アネットは、ますます彼を好きになった。
「えへへ、ありがとう」
――これ、あなたのことを想いながら選んだんだよ。
アネットはその場では、その言葉を飲み込んだ。
実はアッシュの方も、綺麗に身支度をしたアネットを見て鼓動を速めていたのをアネットが知るのは、もう少し後の話。
〈了〉