壊れゆく世界で

寝苦しさを感じて、サーリャは目を覚ました。暗い天幕で夢うつつの中、遠くから怒号や悲鳴が聞こえてくる。瞬間、ドーンと魔法か何かが破裂したような音が空に響いた。
ーー敵襲だ。サーリャの意識は一気に覚醒した。
しかも、おぞましい呪いの気配まである。かなり大掛かりな呪いで、サーリャが目を覚ましたのも、その強大な魔力に反応してのことだった。これほどの呪いだ、ヘンリーの協力がなければ、解くのに時間がかかりすぎて皆の命がないだろう。サーリャはその呪いの雰囲気に違和感があったが、それを気にしている暇はなかった。
サーリャはやって来た敵兵の相手をするべきか、ヘンリーを見つけて呪いを解くべきか迷いながら、魔道書を抱えて天幕を飛び出した。

遠くでは少人数が戦っている様子だが、近くの天幕は静かなものだ。敵襲だというのに、怖いほど仲間達の姿が見えない。敵の姿すらも見えない。
サーリャは敵の数はさほどでもなさそうだから、しばらくは他の仲間達に任せられると思い、呪いを解くのを優先することにした。その協力を仰ぐため、早速ヘンリーの天幕へと走った。

ヘンリーの天幕に向かうにつれ、叫び声や魔法の轟音が近づいてくる。敵か味方かは知らないが、派手に魔道書を使っているようだ。
ところどころ、兵士が這いつくばった姿で事切れている。天幕で休んでいたときに呪いにかかり、苦しくて外に這い出たところで力尽きたのだろう。早く解呪か呪詛返しをしないと、軍が危ない。

そうしてようやく彼の天幕にたどり着くと、声をかけることもなく、いきなり入り口の幕をばさっとめくった。……いない。
何かあったのだろうか。いや、戦うのが好きな彼のことだから、今前線で戦っているのは彼かもしれない。それなら、魔法が連発されているのも説明がつく。
しかし、今この呪いを何とかできるのは彼とサーリャしかいないのだ。もし戦っているのなら、前線から引き離して解呪に専念させなければならない。サーリャは、交戦していると思われる方角を目指した。

サーリャがその辺りに近づいたときには、もう派手な爆発音や、怒号は聞こえなかった。敵か味方、どちらかが倒れたのか。サーリャは天幕に隠れながら、慎重に様子を伺う。
そのときだ。夜風に乗って、悲痛な叫び声が聞こえた。
「どういうことですか!?」
ルフレだ。サーリャはルフレを特別大切にしていた。その彼女が危機に瀕している、そう判断して、思わず身体が動いた。
「ルフレ!」
声の方に駆け出すと、少し開けたところに、たった二人の人間が立っていた。

手前に立っていたのは、イーリス軍の軍師ルフレ。間合いを取って向かい合っていたのは、尋ね人ヘンリーだ。彼はやはり戦っていたのだろう、血まみれだった。二人の足元には仲間達がごろごろと転がっていて、既に息はなさそうだった。

しかし妙だ。敵の亡骸がないのは、屍兵と戦っていたと考えれば問題はない。だが目の前の二人の空気はあまりに不穏で、まるで敵同士のようだ。
「サーリャさん! 良かった、生きてたんですね……!」
ルフレは涙ぐんでいる。これほどの仲間の死を目の当たりにしては無理もないだろう。
「あはは、僕がサーリャを殺す訳ないじゃない」
「ヘンリー、何ぼさっとしているの! 呪いを解くわよ……!」
「あれ〜、サーリャ、気づかなかったの? この呪い、僕がやったんだよ〜」
そこでサーリャは、呪いに違和感があった理由にようやく思い当たった。術者がヘンリーだったのだ。……ということは、この軍の皆を呪い殺したのは彼だということになる。
「ヘンリーさん……どうして……どうしてなんですか……!」
ルフレは崩れ落ちた。もう動かない仲間達にすがっておいおいと泣く彼女の肩を、サーリャは座り込んでさすった。
混乱する頭を落ち着けながら、ヘンリーを見上げる。
「なぜ、殺したの……」
「あれ〜? サーリャ、みんなに死んでほしいんじゃなかったの?」
サーリャは目の前が真っ暗になった。

その日の昼のことだ。サーリャは踏んだり蹴ったりだった。
朝一番の屍兵戦では敵に囲まれたが誰も助けに来られず怪我を負い、野営地に戻ったときにはペレジアのスパイだと陰口を叩かれ、かと思うとその豊満な身体を下卑た目で見られ、手違いで昼食にありつけず、呪いやおまじないはことごとく失敗し……これほどの厄日があるものかというほど酷い一日だった。すっかり不機嫌になったサーリャは、もう夕方になろうとしているのにふて寝していた。

そこにやって来たのがヘンリーだ。彼らは結婚していたので、お互いの天幕には気安く行き来していた。
「サーリャ、なんで寝てるの〜?」
「今日は散々よ……どいつもこいつも、くだらない連中ばかりだわ。みんな地獄へ落ちればいいのよ……」
あまりの不運に捨て鉢になって、つい過激な言動をとる。
「そっか〜。それ、呪いでできるかな? 殺すのは簡単だけど、地獄に落とせるのかな〜」
「そうね……でも、もしかしたらできるかもしれないわ。本当にやってやろうかしら……うふふふ……」
「あはは、じゃあ僕もやってみようかな〜」
「ふふ……貴方なら、できるかもしれないわね……」
それは単なる呪い談義のつもりだった。サーリャはそのときやけになっていたし、眠気でぼんやりしていたこともあり、ヘンリーを強く止めなかった。

まさかあれが、こんな重大な結果に繋がったというのか。頭がくらくらする。全身から冷や汗が吹き出てきた。
確かに、求婚のときのヘンリーは、「サーリャが殺せって言うなら、この軍のみんなだって殺しちゃうよ~」と言っていた。そのことをもっと真剣に考えて、軽はずみな言動は慎むべきだったのだ。
「地獄に落ちる呪い、やってみたんだけど、やっぱりただ殺しただけになっちゃったみたい。僕もまだまだだな〜」
はにかむように笑うヘンリーは化け物だ。とても夫とは思えない物体に、どうにか声を絞り出す。
「皆、殺してしまったの……?」
「うん。今ここで生きてる三人以外は、もうみんな死んでるはずだよ〜。まずは軍全体に呪いをかけたんだけど、呪いで死にきれない精神力の強い人も中にはいたから、ここでみんな殺しちゃった」
聞きたくもない経緯を聞かされて、サーリャは身震いした。
「あ、でもルフレだけは生かしておいたよ。前にサーリャと、ルフレには危害を加えないって約束したからね〜」
「ヘンリーさん……酷い……酷いです。こんな……」
ルフレはまだ起き上がれない。

「……!」
「サーリャ、どこ行くの〜?」
生存者がいる望みに賭けて、サーリャはよろめきながら立ち上がり、走った。もし誰か生きていれば、早いところ逃がさないと、ヘンリーに殺されてしまう。皆に大声で呼びかけ、天幕の入り口をめくり、野営地を駆け巡った。それでも、どこを探しても、まだ温もりの残るヒトの身体が地面に横たわっているだけだった。苦しんだのだろう、目を見開いたまま泡を吹いた兵士の顔が、サーリャに焼きついて離れない。

野営地を一周して、力なく帰ってくると、依然として崩れたままのルフレを、ヘンリーがしゃがみこんで慰めようとしていた。
「ルフレ、元気出してよ〜。ルフレは生きてるんだから、いいじゃない」
「……よくありません……私は、誰にも死んでほしくなかったのに……」
サーリャの頭に、ここまで見てきた仲間達の変わり果てた姿が一気に蘇ってきた。皆死んでしまった。ルフレも悲しんでいる。ーーそして、それを招いたのは、自分の不用意な言動だ。
サーリャの精神はもう限界だった。吐き気が込み上げてきて、慌てて近くの茂みに走る。涙がこぼれるくらいえづいたが、何も出てはこなかった。
「サーリャ、大丈夫?」
ヘンリーは今度はサーリャに近寄ってきて、背中をさする。その優しい手に、寒気がした。
もはや立っていられなくなってへたりこんだサーリャは、いつの間にか嗚咽していた。
「……私は、こんなの……望んでなかったわ……」
何とかそう言うと、ヘンリーはいつもの通りに笑う。
「えっ、そうなの? あははっ、間違っちゃった! ごめんね〜」
まるで、服の前後ろでも間違えたような軽さだ。サーリャはそのまま、気を失った。

野営地は、三人きりの朝を迎えた。
サーリャが目を覚ますと、隣に夫のヘンリーが寝ていた。ここは彼の天幕のようだ。
そのあどけない寝顔と、昨日の残虐な行為が結びつかなくて、サーリャは困惑していた。

起床した三人は野営地を巡り、被害状況を確認した。地獄絵図だ。やはり生存者は三人だけだった。
ルフレは近くの町へ行き、イーリスに緊急事態を告げる書簡を出した。軍の立て直しもそうだし、王族のクロムやリズを弔わなければならないだろう。
そうして町から戻ってきても、死屍累々の現実は変わらなかった。

「これから、どうしましょう……」
夕焼けを背に、ルフレは途方に暮れた。ギムレーの復活を阻止するという使命はあるものの、軍の大将クロムも倒れ、もはや覚醒の儀を行える者もいない。炎の台座は「黒炎」の宝玉が揃っていないし、もし揃っていたとしても、覚醒の儀ができないのならどうしようもなかった。
「あはは、どうしようか〜」
「笑い事じゃありません……! ヘンリーさん、自分のしたことを分かっているのですか!?」
そうして言い争いに発展しかかったときだった。
ふいに三人の前に魔法陣が浮かんだと思うと、ファウダーと、ギムレー教団の最高司祭というルフレと同じ姿の女が現れたのだ。

イーリス軍はペレジアに常に見張られていた。だから彼らは野営地の異変にすぐに気づき、好機だと見てやって来たらしい。
ファウダーは挨拶もなしに、ヘンリーとサーリャのいでたちを見て、口の端をいやらしく上げた。
「クク……お前達、やはりペレジアの同胞だったか。礼を言うぞ」
「ううん。僕はペレジアや教団のためにやった訳じゃないよ〜」
ヘンリーはのんびりと返答するが、ファウダーは構わず続ける。
「間も無くギムレー様は復活される。お前達には地位でも財宝でも、望みのものは全て与えてやろう。まあ、ギムレー様が何もかもを滅ぼされるはずだから、意味はないかもしれぬがな……」
「ファウダー。私達に一体、何の用ですか」
ルフレは鋭い視線を向けるものの、彼らの望むものは炎の台座と宝玉に決まっていた。
「やけに性急だな、我が子よ……。まあ良い。私達が欲しいのは、炎の台座と宝玉……そしてお前だ。ルフレ」
「私、ですか……?」
予期せぬ三つ目の要求に狼狽していると、あの最高司祭が口を開いた。
「……あなたはギムレーの器。これから、あなた自身がギムレーとして復活するのです。そして、あなたは私。私とあなたが一つになれば、ギムレーとして更なる力を得ることができます」
「そんな……私が、ギムレー……?」
「詳しい説明は後でしてやろう。まずは炎の台座を渡してもらおうか」
そうすると、ファウダーはルフレの意識に入り込んだ。その身体を自由にして、炎の台座を持って来させる。
「ファウダー、やめなさい……!」
サーリャが魔道書を取り出す一歩先に、ファウダーは魔法を放ってサーリャを吹き飛ばす。
「サーリャ!」
地面に叩きつけられた彼女にヘンリーが駆け寄る。そのまま身体を起こして寄り添っていると、ルフレが炎の台座を持ってきた。
「クク……それで良い。ではルフレ、私達と共に来るのだ」
仲間達との絆を失って絶望するルフレに、もはやファウダーの術に抵抗するだけの力は残っていなかった。そのままふらふらとファウダーに近寄ると、彼らと共に消えてしまったのだ。
「ルフレ……ルフレ!」
取り乱すサーリャを、ヘンリーは抱きかかえて励ます。
「サーリャ。ルフレ達は、竜の祭壇に行くはずだよ。ギムレーの復活の儀式は、あそこでやるんだ」
ギムレー教団に出入りしていたヘンリーは、復活の儀式について多少知識があった。
「そうなの……なら、行くわ。私、ルフレを助けに行く……」
「そっか〜。なら僕も一緒に行くね。でも、二人じゃどうにもならないかもね〜あはは〜」
「それでも行くわ。ルフレのためなら、この命も惜しくないもの……」
「うん、分かった。でも僕はサーリャが死ぬのは嫌だな。だから、死なないでね〜」
身支度をして、二人きりの旅が始まった。

竜の祭壇は遠かった。途中で屍兵の集団に何度も出くわし、二人で戦うのは辛かったが何とか生き延びた。輸送隊はいなかったから、最低限の荷物だけしか持ち運べず、何かある度に町に立ち寄ることになり、二人はなかなか前進することができなかった。
そしてついに、その時は来た。

二人はようやくペレジアに入り、砂にまみれながら旅を続けていた。すると、急に暗雲が立ち込めてきたのだ。ペレジアではあまり雨が降らない。久々の雨か……と身構えていると、急に地響きが起こって、砂に足を取られた二人は倒れた。
「うわっ!」
「何……今の……?」
すると暗雲の中心から、恐ろしい咆哮が聞こえてきた。そして遠くの空に、黒い物体が浮かんできたのである。その姿はまるで、うごめく竜のようだ。
「……きっとあれ、ギムレーだね。教典の挿絵のギムレーに似てるよ」
滅多に目を見開かない彼も、さすがに笑顔を崩して見入っている。
実際のところ炎の台座の宝玉は、ルフレの策ですり替えてあり、本物はバジーリオが持っていた。だからそのままではギムレーを復活できなかったはずだが、二人が旅をしている間に、何らかの方法で解決してしまったようだ。
「そんな……ルフレ、ルフレ……!」
サーリャは信じられなくて、慌てて呪術道具を取り出し、占いを始めた。ルフレの所在を確かめようとしたのだ。結果はーールフレは、もうどこにもいなかった。
「ルフレ……! うっ……うっ……」
道具を前にうずくまるサーリャの瞳から、雨が降った。サーリャはルフレさえ無事なら、たとえギムレーが復活しようがどうでも良かった。ただルフレに存在してほしかっただけなのだ。あの虐殺でも持ちこたえていたサーリャは、とうとう壊れた。

二人が呆然としている間に、邪竜はどこかへと消えた。早速何かを破壊しようとでもしているのだろうか。それは今の二人には、取るに足らないことだった。
「あはは、僕、神様は信じてなかったけど、ギムレーってほんとにいたんだね〜」
サーリャの耳にはもう何も届いていない。
「ねえサーリャ、どこか休めるところに行こうか。こんなところにいたって、しょうがないよ〜」
泣きじゃくるサーリャを何とか立ち上がらせて支えながら、ヘンリーは宿を探し始めた。

旅の目的をなくした二人は、家を探して共に暮らすことにした。
平穏な日々は訪れなかった。ギムレーは気まぐれで大空を悠然と飛び回り、町や自然を破壊していくのだ。住んでいる町が破壊されるたび、二人は移住した。
普通に家を見つけることもあれば、宿に泊まったり、森で何日も過ごすこともあり、また空き家や倉庫に勝手に入り込むこともあった。皆が生きるのに必死な中、そんな行動をとっても咎める者は誰もいなかった。
そうしてたどり着いたある町に、二人はようやく落ち着くことができた。食料難にはなってきていたし、屍兵も跋扈していたが、一年半ほどは無事に暮らすことができた。二人はようやく、夫婦としてささやかなしあわせを得ることができたのだ。
もちろん、このような事態を招いたのは紛れもなく夫である。しかし壊れてしまったサーリャにとっては、もはや彼だけが唯一の支えだった。

そうしてある日、二人が居間で茶を飲んでいると、あの忌々しい気配がした。
「……とうとう、ここにも来ちゃったみたいだね〜」
窓から外を見ると、まだ小さいが、邪竜の影が徐々に近づいてきていた。
「そうね。今度はどこに行こうかしら……」
二人は早速立ち上がり、旅支度を整える。支度が終わると、二人は窓からギムレーの姿を眺めた。
「次の町まで、無事に行けたらいいね〜」
「ええ……。私より先に死んだら、許さないから……」
「うん、任せてよ〜。それとサーリャは僕が守るから、安心してね〜」
「頼むわね……。……ヘンリー。愛してるわ……」
「ふふっ、僕も大好きだよ〜、サーリャ」
旅の途中で、今生の別れが訪れるかもしれない。そうして愛の言葉を交わすと、邪竜舞う空を切り取った窓の前で、二人の影が重なった。

<了>

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