あなたがいること

 オルテンシアは自分の可愛さに絶対の自信があった。それこそ、世界で一番自分が可愛いと思う程度には。
 その自信は神竜軍に所属することで多少揺らぐことになる。そこには、悔しいけれど自分より可愛いと思える仲間達がいた。
 ところがそれで転ばないのがオルテンシアだ。これまで彼女は自分が可愛くなるためには何でもやってきた。お洒落な服を着たり、髪をしっかりと結ったり、香油で肌や髪のお手入れを念入りにしたり。しかし彼女の努力はそれだけでは終わらない。オルテンシアは「可愛い」を徹底的に研究してきた。例えば子供の彫刻や愛らしい女の子の肖像画を見て美意識を高め、その表情や仕草を自分に取り入れることもやってきた。そして神竜軍の仲間達からもその魅力を盗もうと、可愛いと思う仲間達をよくよく観察することもあったのだ。

 神竜軍には可愛らしい女性が多数存在するが、オルテンシアの研究対象は女性に限らない。時には精悍なヴァンドレやディアマンドすら、ふとした笑顔に滲んだ可愛さに触れて、研究の対象になった。もっとも、彼らは格好良いという印象の方が強かったが、それもオルテンシアには関係ない。彼らの「可愛い」の要素はどこから来るのか、実に必死に検討を重ねてきたのだ。

 そんな中、新たに研究対象の中心になったのが、隣国の第二王子スタルークだ。彼が元々魅力のあるひとであることは分かっていたが、ある日オルテンシアは彼の想像以上の可愛さに度肝を抜かれることになる。
 それはオルテンシアがスタルークの「自信をつけたい」との頼みを断ったときのこと。オルテンシアは彼を卑屈な感情ごと、そのまま受け入れることに決めた。オルテンシアはスタルークが後ろ向きなだけでなく、仲間を守ることに心を砕いていることや、周囲に優しく接することなど、彼なりの良さをいくつも持っていることを知っていた。だから彼は変わる必要はないと心の底から思ったのだ。
 しかし誤算はここから始まる。スタルークはそれを聞いた後、オルテンシアの前から逃げ出すことをやめた。それだけではない、これまで逸らしていた視線を、彼女の目に真っ直ぐ向けて来るようになったのだ。その深く赤い瞳が、優しい視線を向けて来る様——オルテンシアはその瞬間、「可愛い」と思った。あまつさえ、彼女はスタルークの可愛さを前にして自分の立場がなくなったように感じ、いたたまれなくなって逃げ出してしまったのだった。
 
 いくら神竜軍に美男美女が多いといっても、さらにはかつてイルシオン王城や学園にいたときだって、他の人の圧倒的な可愛さにあてられて逃げ出してしまうというのはセリーヌを相手にした時以来で、今までの彼女の人生ではなかなかないことだった。この出来事はオルテンシアに強烈な印象を与えた。そしてスタルークこそが、今「可愛い」の研究をするために最も適した存在だと思ったのだ。

 スタルークは先にはオルテンシアに相談する側であったが、今オルテンシアはスタルークに「どうしたらあなたのように可愛くなれるか知りたい」と相談したいくらいだった。しかしスタルークは彼自身を可愛いとは思っていないだろうから、このような質問は用を成さない。ならば、彼をしっかりと観察してその秘訣を知るしかない。
 オルテンシアはじきに、スタルークのもとへ通うようになった。

「スタルーク王子!」
「ひっ!? ……あっ、オルテンシア王女でしたか。どうかしましたか?」
 果樹園にいたスタルークは声の主が分かると、ほっとしたように声を掛けた。オルテンシアを眩しいと評し、すぐに逃げ出していたあの頃のスタルークはもういない。彼はいまだオルテンシアを眩しいとは感じているようだが、もう側にいても大丈夫だと、そう言っていた。
「別に何も。あなたの姿が見えたから声を掛けただけよ」
「オルテンシア王女にお声掛けいただけるのは嬉しいです……。その、良かったら、果物の収穫を手伝ってくれませんか?」
 スタルークは逃げないどころか、やはり彼女の瞳を真っ直ぐに見てきた。オルテンシアも今度はここで可愛さで負けられないと、いささか見当違いな敵対心を抱きつつ、目線を返して答える。
「いいわよ、時間あるし。今日は何を収穫しているの?」
「モモです」
「そう。収穫できたら、モモのシャーベットを食べたいわ」
「確かあなたの好物でしたよね。……折角ですし、一緒に食べませんか?」
 スタルークはそう言って微笑んだ。モモのシャーベットはスタルークにとっては好きでも嫌いでもない食べ物ということをオルテンシアは知っていた。しかし彼は働いた後に互いを労るように、それを一緒に食べることを提案してきた。
 
 オルテンシアにとってのスタルークは、かつてから随分と変わったように思えた。戦場以外の場所ではオルテンシアと一緒にいることもできずに逃げ出していたというのに、今となっては彼はオルテンシアに歩み寄ってさえいる。そして彼がたたえた微笑みは、やはりオルテンシアにとっては「可愛い」ものだった。彼の可愛さの秘密は何だろう、とオルテンシアが返答もせずにぼんやり考えていたから、スタルークはにわかに慌てだした。
「あっ、すみません! お誘いして迷惑でしたか……!?」
「あっ、え、いいえ、そんなことないわ。是非ご一緒しましょう、スタルーク王子」
 オルテンシアはペガサスが飛ぶより高い空まで飛んでいた意識をすぐさま手繰り寄せる。なんとか答えると、スタルークは安堵した様子で息を吐いた。
「ありがとうございます。では、収穫しましょうか」
 そう言って果物を摘み始めたスタルークはやはり可愛らしく感じた。オルテンシアは彼の可愛さについて考えるとまた上の空になり——気づけば収穫用のはさみで、指先を少しだけ切ってしまった。傷口にじわりと血が滲む。
「痛っ……」
「! オルテンシア王女!? 大丈夫ですか!?」
 異変に気づいたスタルークがすぐさま駆け寄った。オルテンシアの指の傷を確認すると、スタルークは嘆きの声を上げた。
「ああ、僕が今ライブを使えたら……! 杖も使えない僕でごめんなさい……! 傷薬を持ってきますね!」
 一目散に駆け出したスタルークの背中をオルテンシアは見送った。彼は周囲のひとを守りたいという気持ちが強いから、このような時にはその能力を存分に発揮する。その必死な様も可愛いのだからこの男は末恐ろしい。自分の可愛さに自信満々のオルテンシアだったが、彼の底知れない可愛さに飲み込まれそうな感覚さえあった。

 じきにスタルークが持ってきた傷薬をごくんと飲み下すと、オルテンシアの指先の傷はみるみる閉じていった。
「良かった。効果があって何よりです」
 彼は過保護なのか何なのか、傷薬を三本と特効薬を一本も持ってきていた。もちろんこの程度の傷ならば傷薬一本で塞がるのだと彼も分かっていたに違いないが、念には念を入れたらしい。その様子は実に微笑ましかった。
 この日は果樹園で彼に対面してから、オルテンシアはスタルークの可愛さに圧倒されっぱなしだった。

 しかし、この時だけではなかった。
 ある日のスタルークは、カフェテラスで紅茶
を飲んでいて。
 ある日のスタルークは、訓練場で弓を引いていて。
 またある日のスタルークは、牧場で動物の世話をしていて。
 彼のもとを訪れる度、オルテンシアは研究どころではなくなった。なにしろ彼の瞳だけではなく、彼の一挙手一投足が可愛いのだから。しっかり研究をしようったって、オルテンシアの頭が追いついてこないのだ。一体彼をどこから真似して良いものか見当がつかない。
 その圧倒的とも言える可愛さに、自分の魅力は敵わないのではないかとも危惧していた。自信家が自信を失いそうになるほどの魅力がスタルークにはあると、オルテンシアは感じていた。
 オルテンシアはいつしか彼を、研究対象としてだけでなく好敵手とも思うようになっていた。
 

 オルテンシアがスタルークに対抗心を燃やし始めてからのとある日、オルテンシアは決心した。
 スタルークと「可愛さ」で対決し、決着をつけようと——。

 オルテンシアは過去にセリーヌとぷにぷに選手権を開催して戦い、そして選手権を一方的に中止して、最後にはセリーヌの可愛さの前に屈した。セリーヌは「仲良く引き分けにしましょう」と言って表向きは引き分けだったが、オルテンシアにとっては負けも同然だった。このこと自体は悔しい出来事だったが、セリーヌの可愛さを認めることで彼女と打ち解け、むしろ清々しさすら残った。だからきちんと決着をつけることで、きっと行き詰まった研究を打開できるのではないかと踏んだのだ。

「スタルーク王子! 今日はあたしと可愛さを競ってちょうだい!」
「は、へ……? オルテンシア王女!? その、一体どういうことですか……?」
 ソラネルの道端を歩いていたスタルークの前に颯爽と現れたオルテンシアが、開口一番そう言うと、スタルークは当然のごとく戸惑った。
「言葉の通りよ。あたしとあなた、どっちが可愛いのか決めるの!」
「えっ……? いえ、遠慮します。どう考えても僕よりオルテンシア王女の方が可愛いでしょう。僕は不戦敗でいいです……」
「ちょっと、その目! ずるいわよ、そんなにうるうるしちゃって……! すっごく可愛いじゃない!」
 スタルークは早々に白旗を上げたつもりのようだったがオルテンシアは納得しなかった。その奥ゆかしい様子にも可愛さが溢れているとオルテンシアは感じたのだ。
「いえ、そんなことは……僕なんかが可愛いだなんてとても思えません。僕はただの醜悪な男です。むしろ可愛さの対極ではないでしょうか……」
「そういうところもずるいのよ、あなた。そうやって遠慮してるようで、全力で可愛いの! 自覚はないの、スタルーク王子?」
「ある訳ないですよ……」
 話はいつまでも平行線をたどっていく。しばらく押し問答していたとき、スタルークがふと、オルテンシアに尋ねた。
「あの、オルテンシア王女は、僕のことをすごく可愛いと言ってくれてますけど……僕のどこを見て、可愛いと思うんでしょうか……?」
「そうね……まずはその瞳ね。ブロディアは鉱石が特産だって聞いたけど、あなたの瞳は上質な鉱石そのものだわ」
 オルテンシアはこれまでの研究結果も合わせて、スタルークの分析を始めた。
「それとあなたは後ろ向きだけど、憂いを帯びてる表情もいいわね。それに、少し驚いたり怯んだりするところも可愛くて、きっと庇護欲をそそられる人も多いはずよ。ええ、それに……」
 オルテンシアの言葉は美辞麗句ではあったが、彼女が本当にスタルークを可愛いと思うからこその真実の言葉だった。オルテンシアに褒め殺しにされたスタルークは、徐々に顔を赤らめ始めた。
「その、オルテンシア王女、もうそのあたりで……。なんだか恥ずかしくなってきました」
「あら。あたしはあなたの可愛いところ、もっと言えるわよ」
「その必要はありませんよ。だって、最初からオルテンシア王女が勝つって決まってますから……。だから、僕は不戦敗でいいんです」
「……そう。なら、あなたはあたしのどこかを可愛いって思ってくれてるの? もしそれを言えるなら、あたしの勝ちを認めてもいいわよ」
 もはや目的を見失い、自ら勝負に負けようとしていたオルテンシアがそう言うと、スタルークは少々言い淀んだ。
「オルテンシア王女の可愛いところですか……そうですね、たくさんあると思いますけど……その……」
「……もう、全然具体的に言えないじゃない! まあいいわ、この勝負はあなたの勝ちよ」
「待ってください!」
 さすがに可愛いところがどこかという問いに、意見が何もないのはオルテンシアにとっては癪だったが、潔く負けを認めようとしたところで、スタルークはうつむいていた顔を上げた。先程まで照れっぱなしだったのに、彼は急に真剣そのものの強い眼差しをオルテンシアに向けてきた。
「あなたのどこが可愛いかを詳しく伝えるのは簡単です。オルテンシア王女はいつも髪をきちんと整えて可愛らしく結っていると思いますし、衣服やお化粧の仕方も、可愛さとお洒落さをよく考えて選んでいると思います。身だしなみだけではなく、あなたの表情ひとつひとつも、誰もが可愛いと言うでしょう。でも、僕は……」
「な、何よ……」
 真正面から賞賛の言葉をぶつけられ、今度はオルテンシアがうろたえる。その頬はみるみる紅潮していった。
「僕は……あなたという存在が、あなたの存在自体が、とても可愛いと思うんです……」
「あたし自体が……?」
「そうです。オルテンシア王女がそこにいることが、もう可愛いと思うんです……あっ、すみません、僕なんかが出過ぎたことを……!」
「あ、あなたね……! それを言われた女の子が、どう思うか分かってるの!?」
「僕はオルテンシア王女が、自分の可愛いところを教えてほしいと言ったから言ったんですけど……迷惑でしたか……?」
 スタルークの言い分は至極正論だ。彼はオルテンシアの求めに応じて思ったことを正直に言ったまでだ。それなのにオルテンシアはひどく取り乱した。
「……スタルーク王子。やっぱり勝負はあたしの負けよ。そんなに真面目な瞳でそんなこと言われたら……やっぱりあなたの方が可愛いって思ってしまうわ……」
「僕が、ですか……」
「ええ。あたしも……あたしだって、スタルーク王子のいいところをたくさん言ったけど……あなたの存在そのものが可愛いと思ってるわ! あぁ、これじゃやっぱり、あたしの立場がないじゃない……!」
 オルテンシアの方が音を上げて、彼の目の前にいることを恥じらい始めると、スタルークは彼女を落ち着かせようとしたのか、ごく優しく声を掛けた。
「……ありがとうございます。僕みたいなひどく足りない人間に、オルテンシア王女の言葉はあまりにもったいないと思いますが……でも、あなたがそう思ってくれているなら、この勝負は引き分けにしませんか?」
 またもや勝負の相手から、負けも同然の引き分けを提案された。しかしもはやオルテンシアに反論する力は残っていなかった。
「もう、そうやって余裕ぶっちゃって! ……でもいいわ、今回はあなたの言う通りにする。引き分けよ!」

 こうしてこの勝負は、結果的に引き分けで終わった。スタルークとオルテンシアはその場で別れたが、彼の姿が見えなくなった後も、オルテンシアの心臓はばくばくと鳴っていた。
 
「僕は……あなたという存在が、あなたの存在自体が、とても可愛いと思うんです」
「オルテンシア王女がそこにいることが、もう可愛いと思うんです」
 スタルークの言葉はオルテンシアの中で何度も繰り返された。あの真剣な眼差しの記憶と共に。
 オルテンシアはこれまで周囲から数え切れないくらい「可愛い」と言われてきた。しかしここまで誠意を持って、力強く「可愛い」と言われたのは初めてかもしれなかった。
 
 ——スタルーク王子は、やっぱり可愛いひとだわ。
 ——スタルーク王子は、あたしのことを何とも思ってないのにあんなことを堂々と言うなんて、罪なひとだわ。
 ——スタルーク王子は、……——

 オルテンシアの中でスタルークの存在は日に日に増していく。オルテンシアにとって、彼の存在は既に研究対象だとか、好敵手だとか、そんな概念では収まらないくらいに大きく膨らんでいた。
 もしもその気持ちに、「可愛い」以外の名前を付けるなら。オルテンシアがその答えに向き合ったのは、もう少し後のことだった。

〈了〉

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